先日、エンゼルスの大谷翔平選手が1918年ベーブ・ルース(当時レッドソックス)以来、104年ぶりの2桁勝利&2桁本塁打という偉業を成し遂げました。
翌日の新聞に大谷選手に対する一問一答の記事が載っていました。更なる目標を問われた時、
「1番はなるべく健康で、よい状態で最後まで試合ができること。あまり先を見すぎてもしょうがないので、ちゃんと寝て、いい明日を迎えられるように頑張りたいと思います。」
と、答えていました。ごくごく当たり前の言葉だけど胸に響きました。
ワタシ自身はこのしごとの忙しい時期にからだがヘトヘトになっていました。加えて何時も以上にに社会や時代の移り変わりを実感する時期で、それに対するフラストレーションもあったからです。
年齢的に現実的な疲れやフラストレーションを消化するちからが落ちているように感じます。
でも、出来ることをきちんとする以外に方法は無いし、新しい考えや工夫もそこからしか生まれない。
先ずは、なるべく良い状態で明日のしごとをするしか無いと思わされました。きちんと意識してそれしか無いと思っていることが自分を支えると感じました。
深く勉強するのは億劫なので、簡単に流れがわかればそれでいいというなりふりかまわない読書となっています。ふふ。吾妻鏡は北条家側からの視点で編纂された鎌倉時代の歴史書。つまり北条に都合の悪いことははしょられているらしく。源氏には手厳しく、北条の活躍は強調されているということらしいです。まあ、そんなことも含めて内容をさらりと。
頼家の弟の実朝の首をめぐる葉室麟さんの時代小説も。
三谷幸喜さんの映画はうっとおしいとか、ちょっと鼻につくなんて悪口を言いながら、以前の「新選組」の大河の時もすっかりはまってたのしく1年視聴しました。やはりたのしませるのが文句なしにうまいなぁと。
今年は鎌倉時代が題材ですが、ぜひこれを機に鎌倉に親しみたいと思っています。中世ってとっつきにくくないですか? そう、そう思いながら、以前の平清盛の大河の時は挫折してしまったのでした。
んで、ちょうど時代も重なるので運慶のことも知りたいと思ったのですが、そこはそれアニメみたいにとりあえずざっくり知るには小説がよいのでは?というので小説で読みました。
うんうん!! 読んだ後で大河にもちらっと運慶が登場したので、これからももしかしたら出てくるかも(キャストが相島一之さんでしたしてね)。出るにしてもしないにしても、運慶は鎌倉幕府をとっかかりにして大きくなった仏師といってもいいようです。
観たのは春だったでしょうか。高野文子さんがかかわっておられることもうれしく。「平家物語」というものがかもす気配には惹かれつつきちんと読むということはずっとできていなくて。アニメのあとに本も入手しましたが、やはりちゃんと向き合うことが出来ないままです。
とりあえずは、大河ドラマ視聴の助走としても観てよかったと思います。
読んでいての、こまかい気がかりについてはもう忘れてしまいました。今の社会がよりきびしくてつらく、過去の社会はそうではなかったのかどうかは、わからない気がします。結婚していれば経済的に安定しやすいのかどうかもわからないけれど、じぶんの現実については確かにそうだと思います。ひとりよりも確実に子供も育てやすい。
29歳の独身で非正規雇用の女性が、友人から収入のために卵子の提供を誘われます。そこから国内では認められていない代理母出産をすすめられることになり、、、。
もし生きていくことがどうしようもなく困難だったとしたら、ワタシ自身は代理母出産を選択しようと考えるのではないかと思いました。そのことが「子宮の搾取」だとしても。経済的な格差もそれとして、妊娠出産できる性としての女性は社会の中でどう置くのがいいのか?
少し前、亡くなった舅の妹さんが亡くなりました。正しくは何という関係になるのかなぁ。お姉さんと呼んでいたので、お姉さんが亡くなって、4人兄弟だった舅の兄弟は誰もいなくなってしまわれたことになります。
時間の経過というのは清々しく平等。格別なことが無いと仮定すると、ワタシと弟が消滅するまでに、あと30年ほどか? ごく短くしとくと云われても困るけど、呆れるほど長くはなりませんように。
ともかく、亡くなったお姉さんは死に顔も別嬪のままでした。で、49日の法事もあったのですが、何せ格別に暑いわけで。
黒い夏羽織の下に、無理矢理柄の訪問着を着て誤魔化しました。他の無地の薄物は水色とピンクしかないのです。水色はともかく、ピンクは着る機会が一生無いかも。
帯まで黒ではちょっとなので、これまた手描きの松の紬で誤魔化し。誰も見てないよね。というわけで。まあ、帯なんてだいたいほんのちょっとしか見えてないもんね。
この訪問着の柄はあまり大きくはなく。なんとなく滝かなと思い込んでいたのですが、何でしょう? オークションで買った新古品なのでした。
前から読んでみたいなぁと思っていて、やっとメルカリで買いました。著者のデビュー作だそうで、著者は1965年生まれ。すばる文学賞だから新人賞。著者はずーっとずーっと作家になりたくて、書いておられた最中にコロナで何日も意識が無かったそうで、そのことも作品に影響を与えたそう。
「きっちり死ぬ人間」という言葉を著者はインタビューでつかっておられましたが、恐々ながら誰もそうなりたいと思っているはずで。悲壮感をかもしたりしなくても誰も必ず死ぬし、できれば見送る人の死もできるだけ穏やかなものにしたいなぁと思っている。うんうん。そうそう。
主人公のカケイさんと自分はぜんぜん違うけど、自分が老いぼれたとき、そういう感覚ですか? そうかも知れないなぁ。いいカッコして死ねるとは思ってないけど、こんな感じよと話してもらったような。ふーむ。
著者がホームヘルパーを経てケースワーカーをなさっていると知って作品の手触りにとても納得したのでした。若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」をちょっと思い出したけど、年齢的にもそういう状況に関心が高まる気がします。軽いものではなかったけどすごく悲しいつらいというのとは違っていて、だけど読んでいて涙が出ました。
読んでよかったな。友達に「読んでみない?」と押し付けました。
我がやどの 君松の木に 降る雪の
行きには行かじ 待にし待たむ
〜作者未詳 『万葉集』 巻6-1041 雑歌
わたしの庭の、「君を待つという松」の木に
降る雪 のように、
「行き(迎え)」には行かないでおきましょう。
ただひたすらお越しになるのを待ちましょう。
雪と行き、松と待つが掛詞なのかなぁ。松雪草(スノードロップ)のことを俳句に詠もうとして思いをめぐらしているうちに「待つ」を思い出しました。松雪草も松と待のどちらの字も使われていて、色は白くて花弁のふちが緑色。春らしい黄色やピンクなどの色とはまったく無縁。
「クラウディアからの手紙」で使われていた歌です。シベリアの抑留を解かれても帰国が認められなかった弥三郎さん。弥三郎さんと一緒に暮らしていたクラウディアさん。ひたすら弥三郎さんを待っていた久子さん。三人の物語でした。
濱口竜介監督 公式
年末から観に行きたいと思っていたけど、10日の夜にやっと行けました。昼には行きにくいので、横川シネマの夜の8時40分からの回。丁度その日「ドライブ・マイ・カー」のゴールデングローブ賞の外国語映画賞を取ったという報道がしきりにされていて、次の日の昼に同じ監督の最新作だから混み合うなんて目には遭いたくなかったし。で、久々の観客ふたりぼっちの夜になりました。豪華なことだねえ。
オムニバスなので「映画観たぞ!」みたいな感じではなくて、超プロの料理が大きなお皿に、ほんの少しづつ供されるレストランのような。そういううれしさ。親友から恋に落ちそうな相手の男性のことを打ち明けられるモデルや、就職内定が取り消しになったことの怒りを教授に向ける大学生、同窓会の翌日にすれ違った相手が何十年も会いたかった人だった、、など。そのそれぞれの材料はだれしも必ず持っていて。それが完成した形、感情を揺らされてしまう料理に仕上げられているという心地よさと、ゆらゆらとした後味。
「ドライブ・マイ・カー」の劇中にも出てきたように、本読みに感情を込めてはいけない「濱口メソッド」と呼ばれるルールが現実にあるというのを聞きました。その中で、現場で、登場人物の中に何かが起こり、そこが観ているものを惹きつける。ということか。台詞の無い時間にも感情が絡み合っていて。
演劇的という言葉に定義があるかどうかわからないけれど、もし、言葉にはならない関係とその変化を表現すというようなことであったとしたら、濱口監督作品の演劇的なところに捉えられてしまうのだと感じます。
濱口メソッドについてに西島さんのコメント 「ずっと本読みをしているので、全員の台詞が頭の中に完全に記憶されるんです。でも本番になったときに、相手が初めて感情を込めてその台詞を言うと、突然、目の前に生きている人がばーっと現れたような感じがして、毎シーン感動するんですよね。不思議な感覚です。もちろん相手は知っている人なんですけど、初めて見る面を見せつけられるような感じがして。何気なく見えるシーンでも、非常に演じている側は感動するという、初めての体験でした。個人的なキャリアとしては、全くいままでとは違う演技になっていたのかなと思います」