カート・ヴァイル
4枚目のアルバム「SMOKE RING FOR MY HALO」はカート
のルーツであるブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、
ニール・ヤング、フリートウッド・マック、トム・ペティといった先達
への憧憬をうかがわせるクラシック・ロック&フォーク路線のア
ルバムだ。
だ、そうで。
31 BABY LOVE /DIANA ROSS & SURPREAMS
本日のおまけ というか、コレクションしたものの片付けぬままの記事を改めて読んだり、というわけで。97年の夏「 ELEVEN GRAFFITI 」のインタビュー。当時の動向というものを追いかけていたかったなぁと思う。ダーリン田島のミュージシャンとしての激動期なんじゃないのかしらんと、後追いファンとしては思うわけでございます。
渋谷系じゃあねえ! のあとの「 Desire 」 から 「 ELEVEN GRAFFITI 」への気持ちの流れというようなことを綿密に探るというかしつこく考えるというようなインタビューになっておるような。
「一昨年『Desire』 作っている頃は一年に1000枚くらい買ったんだけど、ほとんど7割ぐらい民族音楽。そういう中でアイディアをインスパイアされて作っていったいうのはありますね。で、去年はほとんど9割5分ぐらい、もう新譜ばっかり買ってて。今回のアルバムを作ろうと思った時に、そういった混乱自体をアレンジのテーマにしちゃって、出しちゃおうというか」

(マナー違反、すみませぬ。カテゴリー終了しましたら、撤収のつもりでございますm(_ _)m)
クラシック音楽というのも、聴きに行ったら寝てしまいそうというのが正直なところ。とっても素敵な音だなと思いつつ、チェロのコンサートで気持ちよく眠ってしまって以来、出かけるのはあまり。。(笑)。
オペラというものはTVでちょっと見かけるくらいで観たことがない。だいたい、なんで歌うんだろ?くらいの阿保な認識なので、普通なら出かけないところ。
平田オリザさんがオペラを初演出さるということと、原作が三島の「班女」であるといういうこと、今回は能舞台で上演されるというとこころに惹かれたのであーる。
三島の「班女」はとても短いもので、量としてはすぐに読み終わることができる。それをどこまで汲めるかといえば、その人次第だろうし、どう受け取ってもかまわないのだと思う。
音楽については聞き慣れないし何もわからないけれど、プレトークで聞いた楽監督の細川俊夫さんのおはなしはまず興味深かった。「異界の存在が現実を生きている人と対話して魂の救済を求めるドラマの歌舞劇であるところの能」。その夢と現実、狂気と正気の境界線を往還するドラマを音楽で描くといふ。異国趣味的な音楽ではなく、和の楽器も使わず、能の持つ沈黙を生み出したい。頂点を沈黙に置くような音楽。それを暴力てきに割り込んでいく地下鉄の音で21世紀の今につなげたい。
オリザさんという人はその活躍は言うまでもないけれど、おそらく嫌う人も多かろう。何の知識も無いなりに興味を惹かれる人物と思ふ。それはそれとして、オリザさんは花子の狂気と実子の狂気の差異をあきらかに現したい、と。三島という人の狂気への強い憧れ。憧れながらも理性のなかにあって、野生の狂気に至りたいという葛藤そのものがそこにあると。
小さい構成のオーケストラが能舞台の橋掛りの前のピットに。囃子方が使う舞台の後座には誰もいないので相応の大きさの屏風がそれを区切り、舞台中央には黒い安楽椅子。それをとりかこんで新聞が引きちぎれた紙の海。キャストはトレンチコートやジャケットにスカートといったふうだけれど、足だけは白足袋。改めて足袋の白さの清々しさというものは何といいものかな、などと思われて。両脇には最低限の簡潔な字幕装置。
三島のものをドナルド・キーンさんが英訳なさったものを土台にしているので、歌は英語でセリフは日本語。日本語のままの三島のものではオペラに使用とは思わなかったと思うと細川さんが仰っていたけれど、改めて読んでみて、感覚としてそれもわかるような気もしないではない。もともと細川さんがフランスで委嘱されてお作りになったこの作品は、海外での50回ほどの上演を経て今回で6回目のプロダクション。日本人のみのプロダクションは今回がはじめて。どうやらこれまでの演出家の演出のなかにはいわゆる日本人にっては首をかしげたくなる部分もあったらしい。
知識や経験の無いワタシにとって、キャストの存在より何より気持ちを面白がらせたのは、その始りの劇空間の緊張感と全体の装置だったように思ふ。弦楽器のグリッサンドと管楽器のブレストーン(発音と同時に息が歌口や歯の間から漏れる噪音を発する奏法。楽音は存在するが空気の流れる音の占める割合のほう大きい)で表される風のような音と舞台装置。それが浮かび上がらせる何かの幽く強い気配を含んだ静寂。
住まい近くで、そのような至福の劇空間に立ち会えるしあわせがしみじみ有難かったのである。
(2009年、サントリーホールでの上演の記事)

「 秋の扇」というのは不要なもの、捨てられるべきものという意味だそうです。その昔、夏が終わると本当に捨てていたらしい。前漢の時代、班氏の娘の班ショウヨは皇帝の愛人だったのだけど、他の人に皇帝の心は移り、捨てられた我が身を秋の扇になぞらえて詩「怨歌行」を作った。
世阿弥が作った能「班女」(班氏の娘の意味)は、若い娘の“狂女物”の演目。遊女の花子と東下りの吉田の少将は恋に落ち、互いに扇を取り交わす。それ以来花子は少将恋しさのあまり毎日扇ばかりを眺めて暮らし、「班女」とあだ名され、宿から追い出されてしまう。
花子は都にたどりつき、少将と取り交わした形見の扇を手に、あてにならない少将の言葉を嘆き、独り身の寂しさを訴え、扇を操り舞うほどに心乱れ、班女は、逢わずにいればいるほどつのる恋心を顕わにする。
場面は下鴨神社の糺の森。少将は花子の持っている扇に目を留め、互いが探し求めていた確かめ合いよろこびあう。
能「砧」の砧と、秋の扇はモノとして忘れ去らえた女のさみしさと忘れたものへの怨みを象徴するもの。砧は衣の生地をやわらかくするために打つ木槌。女が砧を打つ場面が情念の表現となっている。
三島由紀夫の「近代能楽集」の「班女」は世阿弥の能に題材を得た小説。登場人物は、花子、吉雄の他に画家の実子が登場する。花子を庇護している画家の実子。実子はは誰からも愛されない存在と思い、誰かを心から愛している花子を自分のものとすることことは自分のしあわせだと捉えている。
扇を手に毎日駅で吉雄を探す花子のロマンスのことが新聞の記事になる。花子を失いたくない実子は吉雄が尋ねてくることを恐れて花子を旅に誘うが花子はひたすら待っていたいと拒む。案の定吉雄が尋ねてきて、強引に花子との再開を果たす。しかし、花子はその男は吉雄ではないといふ。
三島自身が「卒塔婆小町」「葵上」「斑女」の3つの戯曲をつなぎ 合わせ加筆して1つの戯曲にしたものが「Long After Love」です。恋のずっとうしろ。恋を慕う。題名にはふたつの意味。蔵之介さんが2000年に出演されたtptの舞台「Long After Love」はこの中から「班女」を除いた2つを扱っていました。


大きいサイズの彫刻といふものは、熱心に見つめるとクラクラしてきそうでございますね。何故だー? ともあれ、展覧会最終日に滑り込んでまいりました。
「智恵子抄」で有名な高村光太郎はそういえば彫刻家だわね、とか、そのグレイトなお父ちゃんの高村光雲さんの作品だとか。そうそう、お父ちゃんはあの上野の西郷さんを作ったお方ですわな。名前しか存じ上げない圓鍔勝三さんてこういう作品なのね、とか。明治以来の彫刻の変遷とかそういうことは展示に書かれているわけですが、ほかに知識も何もないもんですから、まーとっても上手だわねーなんてノーテンキな感想以外どう言えばいいのかわからないのでございます。
しかーし、どんなに素晴らしい迫力の作品も美術館やそれににふさわしい場所で観ないとね、ですが。おウチに持って帰りたい作品ベスト1はポスターにも出てくる鹿さん。森川杜園(もりかわ とえん)というお方の作品でございます。奈良人形の創始者らしいですね。同じ作家さんの鹿は実は2つありまして、ひとつは春日大社、もうひとつは京都近代美術館蔵とのこと。作は慶応2年と明治初年。思うより古いものですな。
すっかり鹿さんにメロってしまったわけですが、もいっこワタシの好きな鹿さんというのは京都の細見美術館におわすこのお方。

「鹿らぶな展覧会だったわ」と友人のアツコちゃんにメールしたら、「あーら、あたくし鄙びた温泉宿に同宿できるほどに鹿にはシンパシイを感じててよ。犬などより訳知りでナイスよね。」などというわけわからん返信が来ておりました。たぶん彼女は実際、鹿の温泉というのに泊まったんだったと思うけれど、しかしワシの友達はワシより阿保じゃなかろか。
ともあれ、お馴染みの三沢厚彦さんの熊ちゃん、船越桂さんのあの詩的な人々などにも会えたし、たのしいお出かけだったのでした。
追記 名和晃平さんのこれも実物を見てみたいわ。水晶に包まれたヘラジカ(Elk)。


お正月に観たDVD。何時もどおりのお正月でしたけれど、子供と揃ってDVDを観るなんて何時までできるのかなぁという気もします。ムスコのチョイスだったので期待せずに観たら、とっても面白かったのでした。
観終わった後で知ったのは、これは有名なブロードウェイミュージカルの映画化だとうことと、左の青いドレスのママがジョン・トラボルタだってこと。あのママの容姿はどうなってるの??という気がかりは氷解しました(笑)。6時間かけてメイクしたんですって。
映画の舞台は1962年のボルチモア。東海岸側でメリーランド州ですって。ヘアースプレーの会社がスポンサーの人気TV番組「コニー・コリンズ・ショー」のダンサーになることに憧れている太めの女子高生が主人公のミュージカル映画。オーディションで役を射止めたのは下の段の右から2番目の女の子♪
ママの反対を押し切ってオーディションに参加。太っちょさんなんてと追い払われてしまうのだけど、番組のホストの目にとまり目立つ存在に。それが面白くない金髪美女親子にいろんなトラブルを仕掛けられ・・・
音楽に疎いワタシでさえ、60年代風の楽曲の華やかなオンパレードが文句なしにたのしい!元のミュージカルはカルトな独特の雰囲気があるらしいのですけどね。映画は人種差別反対のテーマも出てくるけれど、まあ概してノーテンキな展開。どうやらミュージカルよりもシンプルに明るく楽しく仕上げられているところが功を奏しているらしいですわ。
誰が観ても只々たのしいって、アメリカ映画ならではでしょうかね。

寒いですね。そんなことを言う前に、今年もよろしくお願いします。ぺこりぺこり。
今年の抱負・・・・んんん・・・、流行っているらしいときめき基準で家の中を片付ける(笑)。何と言っても、今年は年齢が大台にのります! そんな時くらい、いらないものを片付けて再スタート!とまいりましょう。探し物の毎日では暮らしがサクサク進まぬというものです。
あとは、たぶん、あまり外に出ないことになりそうです。そんなこともそれはそれでそういう廻り合せ。お家でマイペースにたのしむ方向性というのも悪くないかも。本当は出かけちゃいかんのだけども、の反動で、隙をついては出かけていたところがあるので、なるべく落ち着いて穏やかに暮らすということにするつもり。
もし良かったら、今年の抱負を教えて下さいませ。

昨日「自愛もほどほどに」と言ったものの、単純なところでは手入れしたり可愛がったりしてやらなければいい歳した乙女はすぐに身も心もパサパサになってしまう。お風呂ではムスコのお下がりの壊れかけ防水アイポッドスピーカーをガムテープで補修したやつを使っていたのだけど、冬になってから風呂場の隣の洗面所に無印のこれを設置。新品ではなくてオークションで買った壁掛けCDプレーヤー。精密機械なんだからそういうのこそ新品がいいんじゃないの?と家族は言うのだけど、ワタシにゃこれで充分。財布にもやさしいしね。
洗面所の小さい方の照明だけをつけて、風呂場には明かりはつけない。薄暗いお風呂が好きと言うと、賛同してくれるともだちはほとんどいない。大概「えーっ!」と言われてしまうんだけど、どうでしょう?どこかで読んだ記憶では阿川佐和子さんが暗くして入浴と仰っていたような・・。蛍光灯の明りは苦手だし、タイルの目地を掃除しなくちゃなどと思わないで済むのもいいの(笑)。
入浴に合う音楽とは? ノリノリとかガンガンとかグルービーは、まずこの際はなし。明るく軽やかでなくちゃならないし、歌があるとすれば声はまろやかで温かくなければならない。センチメンタルな気分もリリカルな気配も御法度であーる。あれを試したりこれを試したり。今のところの定番は若き日のジェームス・テイラーのアルバム「ONE MAN DOG」。オススメがあれば、教えてね。

悲しみや苦しみや不安があれば不幸ということではないとわかっているはず。でもやはり、つらいことにはウェルカム!とは言いにくい。さいわいとはどんな顔をしているのだろうか。
目下「嗜癖」のことが気になっているのだけれど、見ていたドラマにDV夫が出てきたので、原作を読んでみることにした(DVも嗜癖のひとつ)。原作は江國香織さんの「思いわずらうことなく愉しく生きよ」。題名は印象的なので知っていた。それは登場する三姉妹の実家の家訓ということになっている。小説のなかみはともかくとして、思いわずらい過ぎることはとらわれなのだろう。自愛もほどほどに。
学校に三者面談に行き、帰り道、ムスメとサンドイッチとパスタが美味しいカフェに寄って朝ごはん件昼ごはん。上等ではないけれど、彼女に本通りで靴を一足買う。ワタシはそんな年に1度か2度の行事のことが好きだ。いい気なものだとも思わないでもないけれど、今日のところさいわいはこんなかたちでわが掌に落ちたらしい。

もう何時読んだのかも思い出せないのだけれど、次の園子恩監督の映画の題材が「東電OL事件」だと聞いたあとだった。東電OLについて、何かしらもう少し腑に落ちたいという衝動だったのだけど、混雑したまま放置しているうちに遠ざかってしまった。
はるか以前に桐野夏生さんの「グロテスク」を読み、佐野眞一さんのドキュメンタリー「東電OL殺人事件」、その次に読むべきものが見つからないまま過ぎ、今回の映画のことがまたきっかけをくれたことになる。適切な選択だったかどうかわからないけれど、中村うさぎさんの「私という病」と「穴があったら、落っこちたい!」を読んだ。その後、上野千鶴子、斎藤学とつづいていったのだが、何も消化できないままというのが正直なところのように思う。
東電OL事件の概要はよく知られていると思うけれど、次のようなこと。1997年3月渋谷区丸山町の木造アパートの空室で渡辺泰子さんという女性が絞殺死体で発見された。彼女は慶応大学経済学部を卒業後、総合職で東京電力に入社、エリートキャリアだったが、その一方で夜は丸山町で客引きをする売春婦だったことが明らかになって世間に衝撃を与えた。同年ネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリという彼女の最後の客が逮捕され結果的に無期懲役となったが、冤罪の可能性が高いと思われている。
「私という病」は、恋愛マーケットからはずれてしまった47歳の私、男に欲情されなくなった私、著者自身が、自身の女としての商品価値を何らか確かめる手段として歌舞伎町の熟女ヘルスで働く。その体験記というわけではなく、そのことで何を感じ自意識とどう闘ったかの記録というべきか。自意識の高さというものはたしかに手に負えぬ病なのだろう。
「穴があったら・・」はやっつけ仕事のエッセイであるらしいけれど、東電OLにも少し触れている。当たり前のことなのだろうが、東電OLの行為を「嗜癖」ととらえているのはワタシにはスムーズで、では全般的に嗜癖とは・・とつながってゆけば納得できるように思う。
嗜癖、それは愛着する欲求の代替え物。本質はアルコールや薬物と同じなのか?破滅的で危険な代物。脅迫的に貪欲に繰り返され、快楽の追求でもあり。自尊心の低さ、自己愛の強さと密接なものだろう。自意識、自己実現というお化け。女という愉しくて厄介な足元。「罪悪感」や「破滅の恐怖」を負うた東電OLの心中を推察してうさぎ嬢はこのように。
快感と苦悩。この二律背反が私を引き裂く。私の中に「もうひとりの私」が立ち現れ、矛盾した副音声で叫び始める。
「私に価格をつけて(私から価値を剥ぎ取って)。私には価値があると言って(私には価値が無いと言って)。もっともっと、高い値段をつけて(もっともっと私を暴落させて)」
羨ましいとか文学的だとか心が震えるとか思うわけでもない。自分探しなどまっぴら御免だし。では何に? 生きていくことへのパワーの強さというようなものに惹かれているのだろうか? すれて鈍感になることのあわれとか、いい気になったり絶望したりする生々しい実感とか、見苦しい自意識との和解への苦闘だとか、たしかにそこにある見たくない何かに惹かれているのだけれど。無いものということになっている何かの、グロテスクな色や形を見定めたいのか。
この漠然とした具合ときたら、ワタシゃ、アタマがわるいのだと思うのだけれど、まあ仕方がない。しかし、その何かは園監督の映画の真ん中の何かに確実に重なっているのだと思う。彼の映画の中の血の赤は(「冷たい熱帯魚」は恐ろしく血まみれだった)、生命の赤だと監督自身述べていた。