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白洲正子 著 『 近江山河抄 』

 

大人が旅をするなら京都よりも奈良か滋賀がふさわしいと思う。派手さは無いが滋味深いと感じているからです。だけど具体的に何を知っているわけでもなく。旅には出かけないワタシは、白洲さんのちからを借りて琵琶湖のまわりを歩くことにしました。まあ、かといってまるっと消化するなんてことも出来ないわけですが、感じておいて次につなげることにしましょ。

 

神楽にも出てくる「伊吹山」は「伊吹の荒ぶる神」として最終章になっています。「イブキ、イブクという言葉は、息を吹くことを意味するから霧の多い伊吹山に、古代の人々は、神のいぶきを想ったに違いない。そのいぶきに当たって日本武尊は命を落とした」と。ぼんやりとしか持っていなかった伊吹山というものに、輪郭を与えられるわけで。

 

それにまつわる神話、山に活躍した修験道の山伏、本地垂迹説に基づく山岳信仰。また龍神信仰だとか近江に多く見られる十一面観音のこと。十一面観音は婆羅門教の十一荒神に基づくと思われ、東大寺二月堂の「お水取り」がそのことの日本での元になっていることなどなど。

 

白洲さんの有名な『かくれ里』なども読んだことがなくて、これまた消化できるかどうかは別として、大人の気分で読み継いでいくつもり。なかなかおつな気分です。

 

 

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小川軽舟 著 『 俳句と暮らす 』

 

年末に出た新書で、読んだのは新年すぐだったかなぁ。熱をこめているというわけではないのですが、以前よりじぶんのなかの配分を高く取られているのが俳句です。だいたい「俳句とはなんぞや?」ということからしてわからない。自己表現じゃあないのね? 感情をさしはさまずにまんま詠むってことは当たり前のことしか言わないんじゃ? とかとかとかとか混迷中です。笑

 

俳句というものは座のものだとか申しますけれど、とりあえず人目にさらしなさいとウチの俳句の先生が仰るのでございます。つうじるかどうかってことなのですかしらん。結社に入らないんだったらせめて新聞投句からしなさい、とか。ほーー。句会の前日にちょちょっとでっちあげるんじゃダメですか。やっぱね、そうなんでしょーねーー。

 

「なんぞや?」の考え方にはおそらくそれぞれあり、それはそれでよいのでしょうが、自分なりの漠然としたなりの納めどころが欲しくなってきた感じです。

 

小川軽舟さんは「」という結社を藤田湘子(水原秋桜子の弟子)から引き継いでいる主宰です。大先生ではありますが昭和36年のお生まれ。同時代人という心やすさを勝手に感じるところがあります。主宰でありながらサラリーマンをなさっているままで、かつ単身赴任中。そのあたりの生活感もそのままにサラリと読ませる一冊。

 

ちょっとおもしろかったのは、世には愛妻俳句とでも呼べばよいようなジャンルがあり、名句が多々あるらしいということ。草田男の「妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る」や、森澄雄の「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」。いやはや素晴らしいけれど、多く賞味すればいささか戸惑わないでもない。男というものの多くは妻に依存的であるらしい。

 

それに対し亡くなった夫を詠んだ句というものはわりあいあるけれど、生きている夫を詠んだ名句はほとんど無いらしい。さもあらん。

 

 

死ぬときは箸置くように草の花   軽舟

 

 

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大峯あきら句集 『 短 夜 』

 

土曜日、哲学者で俳人で僧侶であられる大峯先生のおはなしを聴きに行きました。先生の上で肩書のどれが先とか主とかは無いのでしょうが、おはなしは僧侶としてのほとけのおはなしでした。句についてはまた勉強するにして、この前句会のお便りに同封した『短夜』のあとがきを、まず貼らせていただいておきたいです。

 

 

『 信心を得たる人をば、無碍光仏の心つねに照らし護りたまふ

 

ゆゑに、無明の信心の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし、となり』 

   

 他力の信心について説かれた八十六歳の親鸞聖人の文章の一説です。こんな文章に出会いますと、日頃何げなく使っている「短夜」や「明易し」という季語の深層に、思いがけない新鮮な光がさしてくる思いがします。

 

 自我のはからいを捨てて、無限者のはからいにまかせた人生は、もはや日の暮れに向かって過ぎる人生ではなく、広大な生命世界の開けを告げる暁なのだ、という真理に気づかされるからです。

 

 季節の詩は、たんに過ぎ去るものに対する哀惜の表白に尽きるものではないように思われます。人生は過ぎてゆくと誰もが言いますが、いったい何に対して移り過ぎてゆくのでしょうか。季節内存在はすべて移り去りますが、せれでも季節それ自身は変わることなく回帰して来ます。

 

 流れ去るものは流れ去らないものを一種の河床にして流れているようです。二度と還らないかに見えるわたしたちの人生は、本当は永遠の今の中に回転しているのかも知れません。

 

 

 

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類語・類表現

 

夏のあいだについ買ったもの。使うか?と言われればおそらく使わないのだけど、欲しくなってしまったのでした。

 

てにをは辞典の方は結合語辞典。結合語とは何ぞや? 

例えばパラパラとして出てくるのが『飽く』。その後につづくのが「ことなく手をいれる」「ことのない挑戦」「ことを知らない」

▶ 「なき」愛着・戦い・探求・知識欲・努力をする・野心・野望。

その言葉をどうつなげて、どう使えばいいのかを示しているとでも言えばいいのか。

 

 

てにをは連想表現辞典の方はまさに連想することばを。

『泣く・涙ぐむ』を開くと「うれし泣き」「大粒の涙」「男泣き」「号泣」「さめざめ」「忍び泣く」「啜り泣く」「空涙」「泣かせる」・・・・・と延々つづき。またその一項目づつに例文がずらり。

 

「ことばの海を泳いでみませんか」というコピーがついているけど、たしかに、そう。辞書はことばをモノにした感じがするなぁ。ことばの塊。物書きしごとをするわけでもなく、訳などをするわけでもない。とすれば、パラパラ読むというのが現実的だと思うけど、パラパラしないにしても欲しくなってしまったのよ、というわけ。

 

 

 

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栗原 康 著 『村に火をつけ、白痴になれ』

  岩波書店HP

 

 

↓著者からのコメントを転載させていただきました。

 

読みたい,書きたい,食べたい,セックスがしたい,子どもがほしい.ふつう,ひとはなにかをやるためには,なにかをあきらめなくてはいけないとおもいこまされている.生きるためにとかいって,まずカネのことを考えさせられるからだ.たとえば,家庭をもつようになったら,カネにもならないのに夢をおいかけたら,わがままだといわれてしまう.でも,伊藤野枝はちがっていた.やりたいことがあったら,なにがなんでもやってしまう.ひとつじゃない,全部だ.カネはあとからついてくる.家も仕事もなげ捨てて,がむしゃらになって欲をみたす.失敗もする.死ぬほどバッシングもされる.でも,やってみると自分にはこんな力もあったんだと,妙な自信を手にしている.それを支えてくれる友人がいたら,その大切さにも気づかされる.百人力だ.あんなこともできる,こんなこともできる,もっとできる,わたしはすごい.野枝が身をもっておしえてくれているのは,そういうことだ.あらゆる逆風どんとこい.カネのことなど関係ないね.だれでもできる,なんでもできる.村に火をつけ,白痴になれ、いいよ。 栗原 康

 

本の紹介をみて読みやすそうだと思い、まためっちゃ煽っている本の題名を単純に確かめたくて手にしました。瀬戸内寂聴さんがむかーし書かれた「美は乱調にあり」も野枝のはなしだったかと思いますが、読んだのは30年以上前でハッキリした記憶もなく。

 

 

野枝は無茶をしておじさんに世話をかけて東京の高等女学校に行き、いったん地元で結婚するも、高等女学校の教員であったのちのダダイストの中心人物である辻潤のところにころがりこみ、「青鞜」の編集部で働き、「貞操論争」「堕胎論争」「廃娼論争」の記事を書いて世に問うた。辻との間に子供がふたり。

 

アナーキストの大杉栄と出会い,21歳で大杉・妻・恋人との四角関係に身を投じる。平塚らいてうからついで「青鞜」の編集長になる。大杉との絆を深めその間に5人の子をもうける。旺盛な執筆活動ののち、関東大震災のどさくさに紛れて甘粕正彦が率いる憲兵隊に大杉もろとも28歳で虐殺される。

 

 

いやはや、読んでみるとめーーっちゃ我儘女でございます。云わば人のことなど微塵も考えてもいない。若く、捨てるものもなく、思想や欲望にただまーーーーっすぐに突進し、その間に7人の子供を産んだパワフル過ぎるねえちゃん。ということでしょうか。

 

大杉の恋人の神近市子が大杉を刺した(葉山日蔭茶屋事件)なども含めそこあたりのことが多くの小説や戯曲の題材になっているのは、やはり大杉と野枝という、あるいはらいてうや辻潤や甘粕といったキャストがそこにギュッと固まって、時代の中で疾走しているように感じられるから。そのことを手にとって確かめてみたいのかもしれません。

 

この本の調子はですね、野枝へのファンレターみたい。 いいぞ野枝! もっと行け野枝!! かっこいいぞ野枝!!! 

俺は野枝が大好きだーーーーー!!! という絶叫です。 たのしく読めるのは確か。ハハハ。

 

 

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蟲愛づる姫君

 

 

( 画は堀文子さん・お借りしました )

 

しごと場に置いていた鈴虫のケースを台所に持ってきました。そろそろ脱皮が終わって成虫になるものもありそうで、朝早くや夜に鳴く声を聴きたいからです。アクアリウムの隣に置いていたら、明け方に鳴きました。まだ拙い感じの鳴き方ですけれども。しかし、虫を眺め暮らすなんてこと、想像してなかったなぁ。

 

そういえば、「蟲愛づる姫君」というものがありますけど、どんなだったかなぁとふと思いました。

 

源氏物語 などと同じくらいの平安時代以降に書かれたといわれる「堤中納言物語」の中に収められている短編のひとつ。「堤中納言物語」というものに堤中納言は登場せず、成立時期も筆者もそれぞれ。

 

「蟲愛づる姫君」のモデルは平安時代の後期に、自ら花を育てたり蜂を飼いならしていたといわれる太政大臣の藤原宗輔とその娘なのだとか。

 

 

蝶をかわいがる姫君が住んでいらっしゃる(家の)そばに、按察使の大納言の娘様(が住んでおられるが、そのお方は)、奥ゆかしく、並々でない様子であって、両親が大切に育てていらっしゃることはこの上ない。この姫君がおっしゃることには、「人々が、花や蝶やとかわいがるのは、あさはかで不思議なことです。人には、誠実な心があり、本質を探究してこそ、心の様子も趣があるのです。」と言って、いろいろな虫で、恐ろしそうなのを取り集めて、「これが成長して変化する様子を見よう。」と言って、さまざまな虫かごに入れさせなさる。

 

中でも、「毛虫が趣深い様子をしているのは奥ゆかしい。」と言って、開けても暮れても、額髪を耳の後ろにはさんで、手のひらの上にはわせて、じっと見つめていらっしゃる。若い女房達は、怖がってうろたえたので、男の子の召使で、物怖じしない、身分の低い者を近くに呼び寄せて、箱の虫たちを取らせ、虫の名を問い聞き、新たに初めて見る虫には名前をつけて、面白がりなさる。

 

「人はみな全て、取り繕う所があるのはよくない。」と言って、眉毛を全くお抜きにならず、お歯黒も、「わずらわしい、汚い。」と言って、いっこうにおつけにならず、たいそう白い歯を見せて笑いながら、この虫たちを、朝夕かわいがりなさる。

 

(姫君にお仕えしている)人々が怖がりうろたえて逃げると、姫君は、たいそう異様な様子で大声を立てて叱るのだった。このように怖がる人を、「感心しない、下品だ。」と言って、たいそう黒い眉でにらみなさったので、ますますうろたえるのだった。

                                

( 冒頭より一部分 ・ フロンティア古典教室からお借りしました。)

 

 

このあと、その風変わりな姫のことを風流な貴公子が覗き見し、歌を詠んでよこします。身辺の人々はそのことを変な虫を面白がっている姫を冷やかしに来たのだと嘆きますけれど、その時の姫は「人間、悟ってしまえば何も恥ずかしいことなんてありませんよ。人は夢幻のような世に生きているもの。誰が永遠に生きて本当の善悪を定めることができるものですか」と、仰ったのでした。

 

宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」はこの姫君から着想を得ているのだそうです。

 

 

 

   

 

 

 

 

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竹宮惠子 著 『 少年の名はジルベール 』


ムスメが高校生だった頃、3,4年前。「風と木の詩」を買い直して一緒に読みました。そして今年この「少年の名はジルベール」が出て、ムスメが欲しいというのでハハは春休みにサービスして買ってやり、ムスメから借りて読みました。

ワタシは萩尾望都さんにも竹宮さんにもさほどくわしくはなくて、ただ読んだことはあるというレベル。それらのことはこの本で読む以上にいろんなことを知っておきたいものなのだろうけれど、まあとりあえず。

「風と木の詩」は1976年から連載スタート。いわずもがな、その主人公がジルベール。19世紀のフランスの男子寄宿舎。ジルベールはそこで男娼のような存在。そこにジプシーの血をひく正義漢のセルジュが転校してきて相部屋になる。。。

なんにせよ、表紙がうつくしくてうれしい。

 
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桐野夏生 著 『 バラカ 』
 


東日本大震災から5年。日本政府のありようは、安倍総理が長州の人であることに重なって、勝てば官軍の会津への仕打ちを彷彿とさせると思わざるを得ません。

そして過去を下るならば、国策として満蒙開拓の「王道楽土」に送り込まれた人たちは関東軍に置き去りにされました。東北各県からの義勇軍は上位を占めていました。悲惨を極めた逃避行から生きて戻ってもまた、国策としての北海道、青森、福島をはじめする戦後開拓に携わらざるをえなかった場合も多く。棄てられた民としての歴史を背負っています。

そしてまたもや、貧困からの脱却を託した国策としての、夢のエネルギー原子力政策。東京電力も国も誰も責任を取らない現実。『棄民』という言葉を誰もが実感を持って知る時代。忘れるという暴力をふるわないこと以外に何を思うべきなのでしょう。


さて、桐野さんの分厚い本を買いました。連載は2011年の7月から始まり、情況が刻々と変化する中で取材しながら4年半の間に書きすすめられたものだそうです。物語の中では東京は汚染されて首都は大阪に移っており、被災者は「震災履歴」を語ることで自己紹介をしあう震災8年後の世界。

主人公のバラカは爺さん決死隊と呼ばれるボランティアの老人に警告区域から助け出され、日本中を移動しながら暮らしています。バラカは自分の出自を知りませんが、過酷な日本での生活の中で子供を手放すことになった日系ブラジル人の子供であり、遥かドバイの地で売買されているところをまた日本のキャリアウーマンによって引き取られて日本にいるのでした。

出自が知れない謎の美しい少女バラカは、原発事故によって甲状腺がんを患い首にネックレスのような手術の傷を持つことからシンボリックな存在になってゆきます。そしてまだ子供であるにもかかわらず様々な思惑をもった人々にもまれ、利用され、数奇な運命をたどっていきます。

悪意を含んだネット社会の不気味や、明らかな事故や震災の情報の操作や隠ぺい、自己の不満を差別や憎悪に変えるやり方の一般化。バラカの義父の女性嫌悪や、欲望にかられる現代人と宗教の空虚。オリンピックへの感情。

社会が疲弊したなかで、バラカは、拾ってくれた老人があたたかく庇護していてくれたことによって怒りだけの少女になることなく生き延びてゆきます。物語の最後には、酷さのずーっと先にわずかな希望を置いています。

桐野さんはこの物語の根底には「このままでいいの?」という怒りがあると語っています。バラカという固有名詞はスペインの移動劇団「バラッカ」から取られており、居場所が無いと言う意。そしてアラビア語の神の恩寵の意のバラカにも重ねられているそうです。


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岸見一郎 古賀史健 著 『 嫌われる勇気 』
 


ちょっとした事件があったとき、あつこちゃんにその話を聞いてもらいました。人に話すというのはきもちが整理されて助けられますね。おおごとでなくてもなんやかやの四方山話も効果があるなぁと思います。ま、それはそれとして、その話をした後であつこちゃんがワタシのことを思ってプレゼントしてくれたのがこの本。あつこちゃんは何かあるとこの本を読み直してみるのだそうです。読んでみて、あつこちゃんがそう言った理由も、ワタシにわざわざプレゼントしてくれた理由もよくわかりました。なかなかの収穫。

アドラー心理学の入門書ですが、アドラー心理学というのは今の時代、とても喜ばれているのだそうですね。ちょうど読み終わってからNHKの『100分で名著』でも取り上げられていました。

心理学というとトラウマがどーしたとかという理由づけをしてくれるものの、だから物事が動くというイメージをワタシは持っていませんでした。しかし、アドラーの心理学はものごとをシンプルにしてくれて、勇気をくれるように感じられました。概要をうまくまとめたりはできないので、興味がある方はNHKの頁をどうぞ。

本の耳を沢山折りながら読んだので、そのなかから少しだけ抜き書きを許していただくとします。

P27 ご友人には「外に出ない」という目的が先に会って、その目的を達成する手段として不安や恐怖をこしらえているのです。(「目的論」。アドラー心理学ではトラウマを否定します。)

P33  あなたは「怒りに駆られて大声をだした」のではない。ひとえに「大声を出すために怒こった」のです。要するに怒りとは出し入れ可能な道具なのです。

P51 別人に変わりたいとさえ訴えているのにもかかわらず変われないでいるのはなぜなのか?それはあなたがじぶんのライフスタイルを変えないでおこうと決心しているからなのです。つまり人はいろいろ不満があったとしても「このままのわたし」でいることの方が楽であり安心なのです。(アドラー心理学では性格や気質をライフスタイルと言う。)

P76  われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」。わたしがどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか。自分の手で選択可能だということです。

P90  苦しんでいる当事者の気持ちを完全に理解することなど誰にもできません。しかし自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

P92 健全な劣等感とは他社との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。人は誰しも違っている。その「違い」を善悪や優劣と絡めてはいけないのです。

P101  私憤の発露としての怒りは、他社を屈服させるための道具に過ぎません。もしも面罵されたらその人の隠し持つ「目的」を考えるのです。相手の言動に本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えて下さい。勝つことによって、自の力を証明したいのです。

P105 「怒りという道具に頼る必要がない」のです。人は対人関係の中で「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。あなたが正しいと思うなら、他社がどんな意見であれ、そこで完結するべきはなしです。ところが他者を屈服させようとする。

P108 誤りを認めること、謝罪のことばを述べること、権力争いから降りること、これはいずれも負けではありません。

P120 人はその気になれば相手の欠点や短所などいくらでも見つけることができる、きわめて身勝手な生き物なのです。たとえ相手が聖人君子のような人であったとしても嫌うべき理由など簡単に発見できます。だからこそ世界はいつでも危険なところになりうるし、あらゆる他者を「敵」とみなすことも可能なのです。

P134 アドラー心理学では他者から承認を求めることを否定します。)あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない。他者からの評価馬ばかり気にしていると最終的には他者の人生を生きることになります。

P153  良好な対人関係を結ぶにはある程度の距離が必要です。距離が近すぎて密着してしまうと相手と話すことさえできなくなります。差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない。他者の課題には介入せず、自分の課題にはだれひとり介入させない。課題の分離は対人関係の入り口なのです。

P163 他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。つまり自由になれないのです。嫌われることを怖れるなと言っているのです。

P167  対人関係のカードは常に自分が握っています。他者を操作しようとするのは誤った考えです。わたしが変わったところで変わるのはわたしだけです。その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できることではない。これも課題の分離ですね。

P204  いちばん大切なのは他者を評価しないということです。評価の言葉とは縦の関係から出てくることばです。もし横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬の喜びの言葉が出てくるでしょう。

P209  他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見て行きましょう。われわれは他者を見る時ともすれば「自分にとっての理想像」を勝手にこしらえ、そこから引き算するように評価してしまうものです。

P226(  自己受容と他者信頼、そして他者貢献。)「肯定的なあきらめ」。変えられるものと変えられないものを見極めるのです。われわれは何が与えられているかについて変えることはできません。しかし与えられたものをどう使うかについては自分の力によって変えていくことができます。

P238 他者貢献とは「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそなされるものなのです。他者がわたしに何をしてくれるかではなく、わたしが他者に何をできるかを考える。誰かの役立っているという主観的な感覚、貢献感を持てればそれでいいのです。幸福とは貢献感である。他者からの承認はいりません。

P260 「普通であることの勇気」。なぜ特別になる必要があるのか? それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。だからこそ「特別によくあることがくじかれたとき、「特別に悪くある」ことに極端な飛躍をしてしまうのです。

P264  人生とは連続する刹那なのです。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。人生とは今この瞬間をくるくるダンスするように生きる。ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していればいいのです。踊った結果どこかに到達することはあります。その場にはとどまることはありません。しかし目的地は存在しないのです。

P281 世界とは他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。


TVでおはなししていらした岸見一郎さんも、アドラー心理学は日本ではおいしいところ取りしてさまざまな場面で使われてきていたのだ仰っていました。自己啓発だとか、宗教っぽいビジネスにも使いやすいような気がします。賞罰や評価を認めないということでは教育場面であるとか。

ワタシがどこまで理解できたかわかりませんが、課題の分離は智慧をくれるように感じますし、目的地をめざさないというのはとてもしっくりきます。勇気をくれて、まとわりつく自意識から解放してくれそうな気がするのでした。




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乙川優三郎 著 『 ロゴスの市 』
 

翻訳小説みたいな装丁にどことなく惹かれて買いました。乙川優三郎さんという作家は初めてです。時代小説家の方というイメージをもっていたのですが、やはり時代小説の作品の方が多く山本周五郎賞や直木賞などを受賞なさっている方だそう。52年生まれといいますからワタシより10上でいらっしゃる。

終盤あたり、思ったよりもドラマティックな展開に少し面食らいましたが、はなからそういうものだと思えばよかったらしくて。切なく胸をしめつけられたりしつつ読む恋愛小説だけど、それに留まってないところがたのしいです。

題名が示すように言葉を扱う人たちが主人公です。主に男は翻訳家で、女は同時通訳。のんびりやとせっかちな二人は大学生の時に出会い、言葉をめぐる同士として、男と女として、近く遠く人生を並走してゆきます。

中に向田邦子の「あ・うん」やジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」が出てくるあたりなど、中年には共感しどころでもあり、言葉の海を一緒に漂い、言葉に淫していく気分が十分に味わえます。

人は言葉で考える。人は自分の感情を言葉で捉えようとする。と、思います。人は愛も恋も言葉にしようとし、言葉と言葉は戦ったり揺蕩ったする。言葉が人生を変えさえもしますね。

乙川さんは機械翻訳の下請けやホテル勤務をなさっていた経験があるそうで、実感が書かせた物語なのでしょう。気楽でありながら充足しつつ、一気読みできます。


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