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田辺聖子 著 『花衣ぬぐやまつわる』

 

2カ月ほども前だったでしょうか。積読の山から発掘して読みました。大正から昭和の時代を生きた杉田久女という俳人を扱った小説です。

 

明治23年に官吏の娘として鹿児島で生まれ、父の転勤に伴って沖縄や台湾でのびのびと成長し、現在のお茶の水女子大に進学しました。やがて東京芸術大学を卒業した杉田宇内と結婚。貧しくとも芸術のある生活を胸に中学美術教師の妻として過ごしながら芸術への意欲の乏しい夫に失望していきます。ふたりの女児をもうけた26歳のとき、訪ねてきた自身の兄から手ほどきを受けて俳句に出会います。

 

本の題名にもなっている久女の代表句「 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ  」は大正8年(29歳)の作。ホトトギスを運営していた高浜虚子は俳壇の実力者であり、そのころの俳壇の状況や女性俳句というものがどのような状況にあったかも小説の中に知ることが出来ます。文句なしにいい句というものはあるのでしょうが、やはりどんなものにも師系があったり認められたり認められなかったりするのが人の世だよなぁなどと思いつつ。

 

有名な「足袋つぐやノラともならず教師妻」は大正11年(33歳)の句。その頃、のちの俳壇をリードすることになった橋本多佳子と出会い俳句の手ほどきをしています。

 

当時のサロンだとか、お金があればどうだとか、人の相性だとか。久女は意欲も能力も秀でていて、まただからこそいささか疎んじられるところがあった人なのだろうなぁと思います。本当に一生懸命。うちこんだらトコトンというか、秀でた人は大概執着質だと思います。だからいいとか、よくないとかそういうことではなく。

 

昭和6年(41歳)にはホトトギスの同人に推挙され、女性のための俳句雑誌を創刊し、「谺(こだま)して山ほととぎす欲しいまま」の句で賞を受けるなどした花咲く時期を過ぎ、昭和11年(46歳)には突然同人から削除されます。新興俳句運動のごたごた時期と重なりますが、おそらく久女はその性分と行動が虚子の怒りをかったのではないかと思われます。必死で虚子を慕っていたにもかかわらず。

 

ホトトギスから遠ざけられた久女ですが、他の結社にうつることもせずホトトギスに投句をつづけました。わかってもらえると思ったのかなぁ。同人を削除される以前句集を出すことを虚子に認めてもらい序文をもらいたいと切望した久女でしたがそれもかなわず。実力もあり、必死な人だけに、酷い。

 

終戦直後昭和20年にバランスを崩し精神病院に入院。21年(56歳)に肝臓病悪化のために死去。もとは栄養失調が原因と思われます。昭和27年長女によって句集はやっと出されました。

 

言動が常軌を逸しているといった暗い評判の中に生き、亡くなってからもその色に包まれることになってしまった久女をあたたかい目で検証している作品です。めぐりあわせた人生は最終的には引き受けるしかないし、人生は何処かで必ず終わりを迎える。その当たり前のことをワタシは自分のこととできるのかわかりませんが、不器用でも、空気をよめなくても、必死で生きて死んでいったんだよね久女さん!と、読み終えたのでした。

 


 風に落つ楊貴妃桜房のまま
 朝顔や濁り初めたる市の空
 蝉涼し汝の殻をぬぎしより
 冬服や辞令を祀る良教師
 虚子留守の鎌倉に来て春惜しむ

 鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな

 冬の朝道々こぼす手桶の水

 熟れきって裂け落つ李(すもも)紫

 ぬかづけばわれも善女や仏生会

 かくらんに町医ひた待つ草家かな

 朱欒(ざぼん)咲く五月となれば日の光り

 汝を泣かせて心とけたる秋夜かな

 我を捨て遊ぶ看護婦秋日かな

 バナナ下げて子等に帰りし日暮れかな

 紫陽花に秋冷いたる信濃かな

                                                  

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こうの史代『 世界の片隅に 』

 

ロングランがつづいている映画に行こうと思いながら、今は日中の上映なので出掛けにくく。何となく観ないままも心にかかり。原作の漫画の方を読みました。

 

こうのさんのお母さまのご実家が呉市なのですね。ワタシもこの前親戚の法事で出掛けました。広島市と呉市。本当はもっときちんと知っておくべきことが沢山あるにちがいないのになと、うしろめたいような。

 

漫画に出てくるような、女の子のつかう古い広島弁。そうそう、今もつかうかたがいらっしゃいます。やーんわりとしている。

 

はずかしく思うのは、自分の欲張りすぎなことかなぁ。自分の居場所を大切に思うきもちのいい加減さというか。暮らしぶりそのものかなぁ。自分の怠惰さかなぁ。

 

戦争のこと。戦争になったとしたら。戦争にならないように。ごく簡単に捨てられ、理不尽に踏みつけられ奪われる大切な大切なもの。

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藤沢周平 著 『 一茶 』

 

思えば他にも井上ひさしさんの一茶、田辺聖子さんの一茶があるのに読んでいません。藤沢周平さんが造形なさった一茶は、思いもよらず地を這いまわるように生きた一茶で、興味をひかれていっきに読みました。

 

音楽や絵画にしてもはっきりと点数がつくというものではないでしょう。そのはっきりしないものをよすがに我が口を養って生きていくということのはらんでいる引き裂かれ方というものは何時の時代も同じなのかもしれません。

 

赤裸々な告白や感情を句にぶつけることを良しとするかどうかは別として、人の心に残る一茶の句。句は平明に詠めと言われるけれど、当たり前のつまらなさとは裏と表。

 

句にとりつかれてている人は毎日まるで病のように詠み続けるものらしいですが、一茶の句は無造作なものも含めて膨大。そしてその風狂ぶり。

 

「痩蛙まけるな一茶是にあり」や「やれ打つな蠅が手を摺り足をする」から受ける善良でやさしい人といったイメージはみごとに打ち砕かれます。

 

老年になってから一緒になった若い妻と淫蕩ともいえる時間をもった人だったというのは知っていましたが、あくどいほどのやり方で義弟との遺産争いのしのぎをけずったことや、悪態や自嘲を吐き出さずにいられない人であったこと。

 

どのように生きたとしても人というものは愛おしい。そのように読み終えることができるのは藤沢さんらしい味わいなのでしょう。

 

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白洲正子 著 『 近江山河抄 』

 

大人が旅をするなら京都よりも奈良か滋賀がふさわしいと思う。派手さは無いが滋味深いと感じているからです。だけど具体的に何を知っているわけでもなく。旅には出かけないワタシは、白洲さんのちからを借りて琵琶湖のまわりを歩くことにしました。まあ、かといってまるっと消化するなんてことも出来ないわけですが、感じておいて次につなげることにしましょ。

 

神楽にも出てくる「伊吹山」は「伊吹の荒ぶる神」として最終章になっています。「イブキ、イブクという言葉は、息を吹くことを意味するから霧の多い伊吹山に、古代の人々は、神のいぶきを想ったに違いない。そのいぶきに当たって日本武尊は命を落とした」と。ぼんやりとしか持っていなかった伊吹山というものに、輪郭を与えられるわけで。

 

それにまつわる神話、山に活躍した修験道の山伏、本地垂迹説に基づく山岳信仰。また龍神信仰だとか近江に多く見られる十一面観音のこと。十一面観音は婆羅門教の十一荒神に基づくと思われ、東大寺二月堂の「お水取り」がそのことの日本での元になっていることなどなど。

 

白洲さんの有名な『かくれ里』なども読んだことがなくて、これまた消化できるかどうかは別として、大人の気分で読み継いでいくつもり。なかなかおつな気分です。

 

 

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小川軽舟 著 『 俳句と暮らす 』

 

年末に出た新書で、読んだのは新年すぐだったかなぁ。熱をこめているというわけではないのですが、以前よりじぶんのなかの配分を高く取られているのが俳句です。だいたい「俳句とはなんぞや?」ということからしてわからない。自己表現じゃあないのね? 感情をさしはさまずにまんま詠むってことは当たり前のことしか言わないんじゃ? とかとかとかとか混迷中です。笑

 

俳句というものは座のものだとか申しますけれど、とりあえず人目にさらしなさいとウチの俳句の先生が仰るのでございます。つうじるかどうかってことなのですかしらん。結社に入らないんだったらせめて新聞投句からしなさい、とか。ほーー。句会の前日にちょちょっとでっちあげるんじゃダメですか。やっぱね、そうなんでしょーねーー。

 

「なんぞや?」の考え方にはおそらくそれぞれあり、それはそれでよいのでしょうが、自分なりの漠然としたなりの納めどころが欲しくなってきた感じです。

 

小川軽舟さんは「」という結社を藤田湘子(水原秋桜子の弟子)から引き継いでいる主宰です。大先生ではありますが昭和36年のお生まれ。同時代人という心やすさを勝手に感じるところがあります。主宰でありながらサラリーマンをなさっているままで、かつ単身赴任中。そのあたりの生活感もそのままにサラリと読ませる一冊。

 

ちょっとおもしろかったのは、世には愛妻俳句とでも呼べばよいようなジャンルがあり、名句が多々あるらしいということ。草田男の「妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る」や、森澄雄の「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」。いやはや素晴らしいけれど、多く賞味すればいささか戸惑わないでもない。男というものの多くは妻に依存的であるらしい。

 

それに対し亡くなった夫を詠んだ句というものはわりあいあるけれど、生きている夫を詠んだ名句はほとんど無いらしい。さもあらん。

 

 

死ぬときは箸置くように草の花   軽舟

 

 

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大峯あきら句集 『 短 夜 』

 

土曜日、哲学者で俳人で僧侶であられる大峯先生のおはなしを聴きに行きました。先生の上で肩書のどれが先とか主とかは無いのでしょうが、おはなしは僧侶としてのほとけのおはなしでした。句についてはまた勉強するにして、この前句会のお便りに同封した『短夜』のあとがきを、まず貼らせていただいておきたいです。

 

 

『 信心を得たる人をば、無碍光仏の心つねに照らし護りたまふ

 

ゆゑに、無明の信心の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし、となり』 

   

 他力の信心について説かれた八十六歳の親鸞聖人の文章の一説です。こんな文章に出会いますと、日頃何げなく使っている「短夜」や「明易し」という季語の深層に、思いがけない新鮮な光がさしてくる思いがします。

 

 自我のはからいを捨てて、無限者のはからいにまかせた人生は、もはや日の暮れに向かって過ぎる人生ではなく、広大な生命世界の開けを告げる暁なのだ、という真理に気づかされるからです。

 

 季節の詩は、たんに過ぎ去るものに対する哀惜の表白に尽きるものではないように思われます。人生は過ぎてゆくと誰もが言いますが、いったい何に対して移り過ぎてゆくのでしょうか。季節内存在はすべて移り去りますが、せれでも季節それ自身は変わることなく回帰して来ます。

 

 流れ去るものは流れ去らないものを一種の河床にして流れているようです。二度と還らないかに見えるわたしたちの人生は、本当は永遠の今の中に回転しているのかも知れません。

 

 

 

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類語・類表現

 

夏のあいだについ買ったもの。使うか?と言われればおそらく使わないのだけど、欲しくなってしまったのでした。

 

てにをは辞典の方は結合語辞典。結合語とは何ぞや? 

例えばパラパラとして出てくるのが『飽く』。その後につづくのが「ことなく手をいれる」「ことのない挑戦」「ことを知らない」

▶ 「なき」愛着・戦い・探求・知識欲・努力をする・野心・野望。

その言葉をどうつなげて、どう使えばいいのかを示しているとでも言えばいいのか。

 

 

てにをは連想表現辞典の方はまさに連想することばを。

『泣く・涙ぐむ』を開くと「うれし泣き」「大粒の涙」「男泣き」「号泣」「さめざめ」「忍び泣く」「啜り泣く」「空涙」「泣かせる」・・・・・と延々つづき。またその一項目づつに例文がずらり。

 

「ことばの海を泳いでみませんか」というコピーがついているけど、たしかに、そう。辞書はことばをモノにした感じがするなぁ。ことばの塊。物書きしごとをするわけでもなく、訳などをするわけでもない。とすれば、パラパラ読むというのが現実的だと思うけど、パラパラしないにしても欲しくなってしまったのよ、というわけ。

 

 

 

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栗原 康 著 『村に火をつけ、白痴になれ』

  岩波書店HP

 

 

↓著者からのコメントを転載させていただきました。

 

読みたい,書きたい,食べたい,セックスがしたい,子どもがほしい.ふつう,ひとはなにかをやるためには,なにかをあきらめなくてはいけないとおもいこまされている.生きるためにとかいって,まずカネのことを考えさせられるからだ.たとえば,家庭をもつようになったら,カネにもならないのに夢をおいかけたら,わがままだといわれてしまう.でも,伊藤野枝はちがっていた.やりたいことがあったら,なにがなんでもやってしまう.ひとつじゃない,全部だ.カネはあとからついてくる.家も仕事もなげ捨てて,がむしゃらになって欲をみたす.失敗もする.死ぬほどバッシングもされる.でも,やってみると自分にはこんな力もあったんだと,妙な自信を手にしている.それを支えてくれる友人がいたら,その大切さにも気づかされる.百人力だ.あんなこともできる,こんなこともできる,もっとできる,わたしはすごい.野枝が身をもっておしえてくれているのは,そういうことだ.あらゆる逆風どんとこい.カネのことなど関係ないね.だれでもできる,なんでもできる.村に火をつけ,白痴になれ、いいよ。 栗原 康

 

本の紹介をみて読みやすそうだと思い、まためっちゃ煽っている本の題名を単純に確かめたくて手にしました。瀬戸内寂聴さんがむかーし書かれた「美は乱調にあり」も野枝のはなしだったかと思いますが、読んだのは30年以上前でハッキリした記憶もなく。

 

 

野枝は無茶をしておじさんに世話をかけて東京の高等女学校に行き、いったん地元で結婚するも、高等女学校の教員であったのちのダダイストの中心人物である辻潤のところにころがりこみ、「青鞜」の編集部で働き、「貞操論争」「堕胎論争」「廃娼論争」の記事を書いて世に問うた。辻との間に子供がふたり。

 

アナーキストの大杉栄と出会い,21歳で大杉・妻・恋人との四角関係に身を投じる。平塚らいてうからついで「青鞜」の編集長になる。大杉との絆を深めその間に5人の子をもうける。旺盛な執筆活動ののち、関東大震災のどさくさに紛れて甘粕正彦が率いる憲兵隊に大杉もろとも28歳で虐殺される。

 

 

いやはや、読んでみるとめーーっちゃ我儘女でございます。云わば人のことなど微塵も考えてもいない。若く、捨てるものもなく、思想や欲望にただまーーーーっすぐに突進し、その間に7人の子供を産んだパワフル過ぎるねえちゃん。ということでしょうか。

 

大杉の恋人の神近市子が大杉を刺した(葉山日蔭茶屋事件)なども含めそこあたりのことが多くの小説や戯曲の題材になっているのは、やはり大杉と野枝という、あるいはらいてうや辻潤や甘粕といったキャストがそこにギュッと固まって、時代の中で疾走しているように感じられるから。そのことを手にとって確かめてみたいのかもしれません。

 

この本の調子はですね、野枝へのファンレターみたい。 いいぞ野枝! もっと行け野枝!! かっこいいぞ野枝!!! 

俺は野枝が大好きだーーーーー!!! という絶叫です。 たのしく読めるのは確か。ハハハ。

 

 

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蟲愛づる姫君

 

 

( 画は堀文子さん・お借りしました )

 

しごと場に置いていた鈴虫のケースを台所に持ってきました。そろそろ脱皮が終わって成虫になるものもありそうで、朝早くや夜に鳴く声を聴きたいからです。アクアリウムの隣に置いていたら、明け方に鳴きました。まだ拙い感じの鳴き方ですけれども。しかし、虫を眺め暮らすなんてこと、想像してなかったなぁ。

 

そういえば、「蟲愛づる姫君」というものがありますけど、どんなだったかなぁとふと思いました。

 

源氏物語 などと同じくらいの平安時代以降に書かれたといわれる「堤中納言物語」の中に収められている短編のひとつ。「堤中納言物語」というものに堤中納言は登場せず、成立時期も筆者もそれぞれ。

 

「蟲愛づる姫君」のモデルは平安時代の後期に、自ら花を育てたり蜂を飼いならしていたといわれる太政大臣の藤原宗輔とその娘なのだとか。

 

 

蝶をかわいがる姫君が住んでいらっしゃる(家の)そばに、按察使の大納言の娘様(が住んでおられるが、そのお方は)、奥ゆかしく、並々でない様子であって、両親が大切に育てていらっしゃることはこの上ない。この姫君がおっしゃることには、「人々が、花や蝶やとかわいがるのは、あさはかで不思議なことです。人には、誠実な心があり、本質を探究してこそ、心の様子も趣があるのです。」と言って、いろいろな虫で、恐ろしそうなのを取り集めて、「これが成長して変化する様子を見よう。」と言って、さまざまな虫かごに入れさせなさる。

 

中でも、「毛虫が趣深い様子をしているのは奥ゆかしい。」と言って、開けても暮れても、額髪を耳の後ろにはさんで、手のひらの上にはわせて、じっと見つめていらっしゃる。若い女房達は、怖がってうろたえたので、男の子の召使で、物怖じしない、身分の低い者を近くに呼び寄せて、箱の虫たちを取らせ、虫の名を問い聞き、新たに初めて見る虫には名前をつけて、面白がりなさる。

 

「人はみな全て、取り繕う所があるのはよくない。」と言って、眉毛を全くお抜きにならず、お歯黒も、「わずらわしい、汚い。」と言って、いっこうにおつけにならず、たいそう白い歯を見せて笑いながら、この虫たちを、朝夕かわいがりなさる。

 

(姫君にお仕えしている)人々が怖がりうろたえて逃げると、姫君は、たいそう異様な様子で大声を立てて叱るのだった。このように怖がる人を、「感心しない、下品だ。」と言って、たいそう黒い眉でにらみなさったので、ますますうろたえるのだった。

                                

( 冒頭より一部分 ・ フロンティア古典教室からお借りしました。)

 

 

このあと、その風変わりな姫のことを風流な貴公子が覗き見し、歌を詠んでよこします。身辺の人々はそのことを変な虫を面白がっている姫を冷やかしに来たのだと嘆きますけれど、その時の姫は「人間、悟ってしまえば何も恥ずかしいことなんてありませんよ。人は夢幻のような世に生きているもの。誰が永遠に生きて本当の善悪を定めることができるものですか」と、仰ったのでした。

 

宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」はこの姫君から着想を得ているのだそうです。

 

 

 

   

 

 

 

 

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竹宮惠子 著 『 少年の名はジルベール 』


ムスメが高校生だった頃、3,4年前。「風と木の詩」を買い直して一緒に読みました。そして今年この「少年の名はジルベール」が出て、ムスメが欲しいというのでハハは春休みにサービスして買ってやり、ムスメから借りて読みました。

ワタシは萩尾望都さんにも竹宮さんにもさほどくわしくはなくて、ただ読んだことはあるというレベル。それらのことはこの本で読む以上にいろんなことを知っておきたいものなのだろうけれど、まあとりあえず。

「風と木の詩」は1976年から連載スタート。いわずもがな、その主人公がジルベール。19世紀のフランスの男子寄宿舎。ジルベールはそこで男娼のような存在。そこにジプシーの血をひく正義漢のセルジュが転校してきて相部屋になる。。。

なんにせよ、表紙がうつくしくてうれしい。

 
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