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平野啓一郎 著 『 マチネの終わりに 』

 特設サイトhttps://k-hirano.com/lp/matinee-no-owari-ni/

 

いやはや。今はテレビドラマはわりとたのしみに見ています。何時の頃かずっとドラマも見れない時があって、今はのんきな気軽なのだけがすき。今のレギュラーは、マツジュンとキムタクと石原さとみ。ふふ。お気楽でしょ。

 

本も読めなくなって、お布団で読むのが至福なんて気分も長く味わっていなくて。まあ、元から読書家とかではないのですけども。恋愛小説なら読めるのではないかなぁと。何処かで薦めていたのも記憶にあって手にしました。

 

たのしかったです。展開にはいささか無理が?とも思いましたが、苦しくなることなく、心が、感情が揺らされました。ギタリストの男性と海外の通信社に勤める女性の、40歳あたりの大人の、抑制のききすぎているともいえる恋。恋愛小説の芯というものはあのすれちがいの「君の名は」と同じことなのか?とか思いつつ。恋愛小説というものは、ふたりのきもちが上手く通じて溶ける合うことを祈るように読みすすめるのが醍醐味なのかも。

 

作者の言葉を借りた方が早いので、借りてしまうと。 小説の中心的なテーマは「恋愛」ですが、そこは僕の小説ですので、文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代の困難、父と娘、《ヴェニスに死す》症候群、リルケの詩、……といった、硬軟、大小様々なテーマが折り重なって、重層的な作りになっています。もちろん、全篇にわたって音楽の存在は重要です!

 

重層的なテーマについてはちょっとわかってる気分にしてもらえるのが面白味です。ワタシ自身は恋愛について考える時期にはありませんけれど、若者の恋では無いというところに心を近くすることができました。思い通りにならないこと、経過してしまう時間だとか。

 

繰り返し出てくるモチーフは「過去は変えることができる」ということで、過去の意味づけが変わることで自分の存在の核を置き直すことが出来る。長い時間の流れを受け止めてきた大人。そのことで変わっていけるとすれば人生の妙なるあじわいに違いありません。

 

カタルシスを味わえないまま終わるのかなぁと少し不安でしたけれど、それなりに。

 

 

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澤田瞳子 著 『 若 冲 』

 

昨年は少しも本を読まなかったように思います。新聞すら読むのが億劫で重ねては捨てるばかり。とっつきやすいものからはじめて、本が読めるようになりたいなぁ。というので、積読の中から選んだのがこれでした。

 

おそらく沢山の史料を積み重ねられた上で、澤田さんが造形された若冲という人間が描かれています。史実でない部分も大きいのでしょうが、若冲の生家である京都錦小路の青物問屋、相国寺の僧である大典や石峰寺の大枠は勿論。池大雅、与謝蕪村、円山応挙もそれぞれ血の通った人物として出てきます。

 

若いころに自死させてしまった妻への贖罪として絵を描き続けたという設定や、その妻の弟で贋作の絵描きとなった君圭との相克が主な物語の流れですが、そこには少し弱さを感じつつ、ぐんぐんたのしく読むことが出来ました。

 

京都のその時代の空気に少し触れることも出来るのは、ドキュメントとフィクションを筆力で上手く混ぜてあればこそ。

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よく生きるということ 岸見一郎さん

 

先日、高校生の女の子に手作りクッキーをもらいました。人のきもちの宛先になることはしあわせだなぁと何時も思います。なっちゃん、ありがとうね。

 

ますますこの頃本を読むことができなくて、どうしてとっ散らかっているのかなぁ。さておき。えーと、岸見先生のおはなしがあったそうで、その要約だけを冊子で読んだのでちょっとメモ。えーとえーと、つまりは幸福に生きるというおはなしに思えるのだけれど、先日の100分で名著のラッセルの「幸福論」からイメージはつながり。ラッセルも「他者とつながること」でしあわせになれると云っていて、そこらへんも。

 

「成功と幸福をとを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。

 成功は質的なもの、量的なものであり、他方幸福は各人のもので、質的なものである。」

 (三木清 人生論ノート)

 

幸福は存在に関わり成功は過程にかかわる。幸福は過程ではなく、何かを達成しなくても今こうして生きていることがそのまま幸福だということ。ある経験をしたからふこうになるわけでもなく、幸福になるわけでもありません。

 

対人関係のなかでしか人は幸福になれないのです。アドラーはあらゆる悩みは対人関係の悩みであるという云い方をしています。対人関係に傷つくのを恐れる人はいますが、対人関係は幸福の源泉でもあるのです。人と人との関係のなかにあって初めて生きる喜び、幸福であるという感覚を持てるということが本当だと思う。

 

対人関係に入って行くとき、自分に価値があると思える時に勇気が持てる。そのためには貢献感が必要。今の時代は生きる人の価値を生産性にしか求めないということが大きな問題だと思います。何が出来るかにしか価値を置かない。相模原のとても不幸な事件をまねいたような、そういう価値観を完璧に転倒しなければいけないと思う。

 

 

 

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田辺聖子 著 『花衣ぬぐやまつわる』

 

2カ月ほども前だったでしょうか。積読の山から発掘して読みました。大正から昭和の時代を生きた杉田久女という俳人を扱った小説です。

 

明治23年に官吏の娘として鹿児島で生まれ、父の転勤に伴って沖縄や台湾でのびのびと成長し、現在のお茶の水女子大に進学しました。やがて東京芸術大学を卒業した杉田宇内と結婚。貧しくとも芸術のある生活を胸に中学美術教師の妻として過ごしながら芸術への意欲の乏しい夫に失望していきます。ふたりの女児をもうけた26歳のとき、訪ねてきた自身の兄から手ほどきを受けて俳句に出会います。

 

本の題名にもなっている久女の代表句「 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ  」は大正8年(29歳)の作。ホトトギスを運営していた高浜虚子は俳壇の実力者であり、そのころの俳壇の状況や女性俳句というものがどのような状況にあったかも小説の中に知ることが出来ます。文句なしにいい句というものはあるのでしょうが、やはりどんなものにも師系があったり認められたり認められなかったりするのが人の世だよなぁなどと思いつつ。

 

有名な「足袋つぐやノラともならず教師妻」は大正11年(33歳)の句。その頃、のちの俳壇をリードすることになった橋本多佳子と出会い俳句の手ほどきをしています。

 

当時のサロンだとか、お金があればどうだとか、人の相性だとか。久女は意欲も能力も秀でていて、まただからこそいささか疎んじられるところがあった人なのだろうなぁと思います。本当に一生懸命。うちこんだらトコトンというか、秀でた人は大概執着質だと思います。だからいいとか、よくないとかそういうことではなく。

 

昭和6年(41歳)にはホトトギスの同人に推挙され、女性のための俳句雑誌を創刊し、「谺(こだま)して山ほととぎす欲しいまま」の句で賞を受けるなどした花咲く時期を過ぎ、昭和11年(46歳)には突然同人から削除されます。新興俳句運動のごたごた時期と重なりますが、おそらく久女はその性分と行動が虚子の怒りをかったのではないかと思われます。必死で虚子を慕っていたにもかかわらず。

 

ホトトギスから遠ざけられた久女ですが、他の結社にうつることもせずホトトギスに投句をつづけました。わかってもらえると思ったのかなぁ。同人を削除される以前句集を出すことを虚子に認めてもらい序文をもらいたいと切望した久女でしたがそれもかなわず。実力もあり、必死な人だけに、酷い。

 

終戦直後昭和20年にバランスを崩し精神病院に入院。21年(56歳)に肝臓病悪化のために死去。もとは栄養失調が原因と思われます。昭和27年長女によって句集はやっと出されました。

 

言動が常軌を逸しているといった暗い評判の中に生き、亡くなってからもその色に包まれることになってしまった久女をあたたかい目で検証している作品です。めぐりあわせた人生は最終的には引き受けるしかないし、人生は何処かで必ず終わりを迎える。その当たり前のことをワタシは自分のこととできるのかわかりませんが、不器用でも、空気をよめなくても、必死で生きて死んでいったんだよね久女さん!と、読み終えたのでした。

 


 風に落つ楊貴妃桜房のまま
 朝顔や濁り初めたる市の空
 蝉涼し汝の殻をぬぎしより
 冬服や辞令を祀る良教師
 虚子留守の鎌倉に来て春惜しむ

 鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな

 冬の朝道々こぼす手桶の水

 熟れきって裂け落つ李(すもも)紫

 ぬかづけばわれも善女や仏生会

 かくらんに町医ひた待つ草家かな

 朱欒(ざぼん)咲く五月となれば日の光り

 汝を泣かせて心とけたる秋夜かな

 我を捨て遊ぶ看護婦秋日かな

 バナナ下げて子等に帰りし日暮れかな

 紫陽花に秋冷いたる信濃かな

                                                  

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こうの史代『 世界の片隅に 』

 

ロングランがつづいている映画に行こうと思いながら、今は日中の上映なので出掛けにくく。何となく観ないままも心にかかり。原作の漫画の方を読みました。

 

こうのさんのお母さまのご実家が呉市なのですね。ワタシもこの前親戚の法事で出掛けました。広島市と呉市。本当はもっときちんと知っておくべきことが沢山あるにちがいないのになと、うしろめたいような。

 

漫画に出てくるような、女の子のつかう古い広島弁。そうそう、今もつかうかたがいらっしゃいます。やーんわりとしている。

 

はずかしく思うのは、自分の欲張りすぎなことかなぁ。自分の居場所を大切に思うきもちのいい加減さというか。暮らしぶりそのものかなぁ。自分の怠惰さかなぁ。

 

戦争のこと。戦争になったとしたら。戦争にならないように。ごく簡単に捨てられ、理不尽に踏みつけられ奪われる大切な大切なもの。

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藤沢周平 著 『 一茶 』

 

思えば他にも井上ひさしさんの一茶、田辺聖子さんの一茶があるのに読んでいません。藤沢周平さんが造形なさった一茶は、思いもよらず地を這いまわるように生きた一茶で、興味をひかれていっきに読みました。

 

音楽や絵画にしてもはっきりと点数がつくというものではないでしょう。そのはっきりしないものをよすがに我が口を養って生きていくということのはらんでいる引き裂かれ方というものは何時の時代も同じなのかもしれません。

 

赤裸々な告白や感情を句にぶつけることを良しとするかどうかは別として、人の心に残る一茶の句。句は平明に詠めと言われるけれど、当たり前のつまらなさとは裏と表。

 

句にとりつかれてている人は毎日まるで病のように詠み続けるものらしいですが、一茶の句は無造作なものも含めて膨大。そしてその風狂ぶり。

 

「痩蛙まけるな一茶是にあり」や「やれ打つな蠅が手を摺り足をする」から受ける善良でやさしい人といったイメージはみごとに打ち砕かれます。

 

老年になってから一緒になった若い妻と淫蕩ともいえる時間をもった人だったというのは知っていましたが、あくどいほどのやり方で義弟との遺産争いのしのぎをけずったことや、悪態や自嘲を吐き出さずにいられない人であったこと。

 

どのように生きたとしても人というものは愛おしい。そのように読み終えることができるのは藤沢さんらしい味わいなのでしょう。

 

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白洲正子 著 『 近江山河抄 』

 

大人が旅をするなら京都よりも奈良か滋賀がふさわしいと思う。派手さは無いが滋味深いと感じているからです。だけど具体的に何を知っているわけでもなく。旅には出かけないワタシは、白洲さんのちからを借りて琵琶湖のまわりを歩くことにしました。まあ、かといってまるっと消化するなんてことも出来ないわけですが、感じておいて次につなげることにしましょ。

 

神楽にも出てくる「伊吹山」は「伊吹の荒ぶる神」として最終章になっています。「イブキ、イブクという言葉は、息を吹くことを意味するから霧の多い伊吹山に、古代の人々は、神のいぶきを想ったに違いない。そのいぶきに当たって日本武尊は命を落とした」と。ぼんやりとしか持っていなかった伊吹山というものに、輪郭を与えられるわけで。

 

それにまつわる神話、山に活躍した修験道の山伏、本地垂迹説に基づく山岳信仰。また龍神信仰だとか近江に多く見られる十一面観音のこと。十一面観音は婆羅門教の十一荒神に基づくと思われ、東大寺二月堂の「お水取り」がそのことの日本での元になっていることなどなど。

 

白洲さんの有名な『かくれ里』なども読んだことがなくて、これまた消化できるかどうかは別として、大人の気分で読み継いでいくつもり。なかなかおつな気分です。

 

 

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小川軽舟 著 『 俳句と暮らす 』

 

年末に出た新書で、読んだのは新年すぐだったかなぁ。熱をこめているというわけではないのですが、以前よりじぶんのなかの配分を高く取られているのが俳句です。だいたい「俳句とはなんぞや?」ということからしてわからない。自己表現じゃあないのね? 感情をさしはさまずにまんま詠むってことは当たり前のことしか言わないんじゃ? とかとかとかとか混迷中です。笑

 

俳句というものは座のものだとか申しますけれど、とりあえず人目にさらしなさいとウチの俳句の先生が仰るのでございます。つうじるかどうかってことなのですかしらん。結社に入らないんだったらせめて新聞投句からしなさい、とか。ほーー。句会の前日にちょちょっとでっちあげるんじゃダメですか。やっぱね、そうなんでしょーねーー。

 

「なんぞや?」の考え方にはおそらくそれぞれあり、それはそれでよいのでしょうが、自分なりの漠然としたなりの納めどころが欲しくなってきた感じです。

 

小川軽舟さんは「」という結社を藤田湘子(水原秋桜子の弟子)から引き継いでいる主宰です。大先生ではありますが昭和36年のお生まれ。同時代人という心やすさを勝手に感じるところがあります。主宰でありながらサラリーマンをなさっているままで、かつ単身赴任中。そのあたりの生活感もそのままにサラリと読ませる一冊。

 

ちょっとおもしろかったのは、世には愛妻俳句とでも呼べばよいようなジャンルがあり、名句が多々あるらしいということ。草田男の「妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る」や、森澄雄の「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」。いやはや素晴らしいけれど、多く賞味すればいささか戸惑わないでもない。男というものの多くは妻に依存的であるらしい。

 

それに対し亡くなった夫を詠んだ句というものはわりあいあるけれど、生きている夫を詠んだ名句はほとんど無いらしい。さもあらん。

 

 

死ぬときは箸置くように草の花   軽舟

 

 

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大峯あきら句集 『 短 夜 』

 

土曜日、哲学者で俳人で僧侶であられる大峯先生のおはなしを聴きに行きました。先生の上で肩書のどれが先とか主とかは無いのでしょうが、おはなしは僧侶としてのほとけのおはなしでした。句についてはまた勉強するにして、この前句会のお便りに同封した『短夜』のあとがきを、まず貼らせていただいておきたいです。

 

 

『 信心を得たる人をば、無碍光仏の心つねに照らし護りたまふ

 

ゆゑに、無明の信心の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし、となり』 

   

 他力の信心について説かれた八十六歳の親鸞聖人の文章の一説です。こんな文章に出会いますと、日頃何げなく使っている「短夜」や「明易し」という季語の深層に、思いがけない新鮮な光がさしてくる思いがします。

 

 自我のはからいを捨てて、無限者のはからいにまかせた人生は、もはや日の暮れに向かって過ぎる人生ではなく、広大な生命世界の開けを告げる暁なのだ、という真理に気づかされるからです。

 

 季節の詩は、たんに過ぎ去るものに対する哀惜の表白に尽きるものではないように思われます。人生は過ぎてゆくと誰もが言いますが、いったい何に対して移り過ぎてゆくのでしょうか。季節内存在はすべて移り去りますが、せれでも季節それ自身は変わることなく回帰して来ます。

 

 流れ去るものは流れ去らないものを一種の河床にして流れているようです。二度と還らないかに見えるわたしたちの人生は、本当は永遠の今の中に回転しているのかも知れません。

 

 

 

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類語・類表現

 

夏のあいだについ買ったもの。使うか?と言われればおそらく使わないのだけど、欲しくなってしまったのでした。

 

てにをは辞典の方は結合語辞典。結合語とは何ぞや? 

例えばパラパラとして出てくるのが『飽く』。その後につづくのが「ことなく手をいれる」「ことのない挑戦」「ことを知らない」

▶ 「なき」愛着・戦い・探求・知識欲・努力をする・野心・野望。

その言葉をどうつなげて、どう使えばいいのかを示しているとでも言えばいいのか。

 

 

てにをは連想表現辞典の方はまさに連想することばを。

『泣く・涙ぐむ』を開くと「うれし泣き」「大粒の涙」「男泣き」「号泣」「さめざめ」「忍び泣く」「啜り泣く」「空涙」「泣かせる」・・・・・と延々つづき。またその一項目づつに例文がずらり。

 

「ことばの海を泳いでみませんか」というコピーがついているけど、たしかに、そう。辞書はことばをモノにした感じがするなぁ。ことばの塊。物書きしごとをするわけでもなく、訳などをするわけでもない。とすれば、パラパラ読むというのが現実的だと思うけど、パラパラしないにしても欲しくなってしまったのよ、というわけ。

 

 

 

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