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朝のスコッチ
 台風はこちらでは大したこともなく過ぎてゆくらしい。今日おいでになる予定だったしごとの来客は台風を見越してキャンセル。今日もふつうの一日になる。たぶん。

早起きをしてまず白湯を飲む。鉄瓶で沸かして目を覚ましながらメールやダーリンの日記を開く。身体を動かすしごとを1時間ほどをやっつけて、水撒きも済ませる。台風に気を取られているあいだに梔子と山椒の葉はみーんな青虫にやられてしまったらしい。山椒のにおいのするまるまると太った青虫を何匹も撤収。やれやれ。

コーヒーと番茶を沸かし、シャワーを浴び、それから「幽霊たち」に書いて下さったきさらぎさんのコメントを読んだ。あー、そうね、「ブラック&ホワイト」。原作に出てくる部分はこうだ。

「そこでブルーはブラックのテーブルに近づき、座ってもかまわないかと訊ねる。ブラックは別に不満な様子もしめさず、どうぞお好きにという感じで肩をすくめる。ブルーは向かい側の椅子に腰かける。数分のあいだ、二人はたがいに何も言わずに、ウェイターが注文をとりにくるのを待つ。彼らは夏服を着た女たちが通り過ぎるのを眺め、彼女たちが残してゆくさまざまな香水の香りを味わう。ブルーとしては、ことを急ぐつもりはさらさらない。ここはじっくり時機をうかがって、流れに任せるのが手なのだ。ようやくウェイターがやってきて、何にいたしましょうと彼らに訊ねる。ブラックはブラック・アンド・ホワイトをオン・ザ・ロックで注文する。ブルーはこれを秘密のメッセージと受け取らずにはいられない。ゲーム開始の合図というわけだろう」

ここの二人の会話のシーンはなかなかの見せ所だ。できることならもう一度観てみたい。そのあと小説の方では、ブランデーを飲む場面も出てくるけれど、ここではブラック・アンド・ホワイトでなければならない。ポピュラーなスコッチ。

今日から学校は夏休み。昨日でしごとは一段落。ひとしごと済ませて気分はゆったりとした朝の時間。電話や玄関のインターフォンが鳴り始めるまでにはあと2時間ほどあるだろう。昼間にビールやワインを一杯ということは無きにしもあらずだが、朝にスコッチの水割りを飲んだのは初めてだといふ気がする。ブラック・アンド・ホワイトではなく分不相応に到来物の上等。

大げさだとわかっているけれど、ライヴまで、舞台まで、と思っていた何かが終わり、何かホッともしている。そしてうんと近くに居たミュージシャンや演出家や役者は、元通りにうんと遠くて何も分かり合えない、言葉も通じない人に戻ってゆく。そしてやはりそれは何処か寂しい。






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舞台 「 幽霊たち 」
          


時間を置けば何か腑に落ちるとか消化できるというもので無さそうなので、ずうずうしくも拙い覚えを書いておきたいと思う。(ねたばれしています(^Д^)/)

まず何より蔵之介さんの今回のチャレンジに拍手をおくりたい。蔵之介さんがパルコさんで白井さんをご指名できるだけの仕事の素地を作ってこられたこともふぁんとしてうれしいし、「どーすんねコレ」「無理だな」というような作品であったこと、それを白井さんが蔵之介さんにどう?と仰って下さったこと。オースターに思い入れのある白井さんにとっては温めておられた大切な原作だったと思うし、それを蔵之介さんと一緒に作ろうとして下さったこと、あと白井さんのもっともっとの作品への熱意。出来も素敵だったけれど、まずこの作品の上演、蔵之介さんの挑戦そのことがとても嬉しかった。贅沢とは思いつつ、Team申以外の作品は切望していたことだ。

(チャレンジと書き、挑戦と言い直してふと思った、塙先生だものな、蔵之介さんは。)

何時ものことだが、ワタシの場合先入観無しで観劇することは放棄している。観劇までの時間を予習するたのしみに費やして過ごしたいからだ。けれど今回は5月より読書する時間が取れなくなり、それが少し残念だった。今回の作品の場合、少しくらいは予習いておくのもさほど悪いことではなかったかもしれないと、今は思う。

1947年のニューヨーク。私立探偵のブルーは、ブラックという男の監視を、ホワイトという男から依頼される。週に1度の報告書の義務。恋人のオレンジに電話をかけて、仕事が入ってしばらく会えないと告げる。ブルーの予測では10日間ほど。ブラックの部屋がよく見えるアパートの部屋を用意され、その部屋の住人となるブルー。何も起こらない毎日、2ヶ月が過ぎ、ブルーは見張られているのは自分ではないかという疑いを抱き始める。そして一年経ち、ブルーの中でブラックと自分との境界線は曖昧になってゆきブルーは自分自身の存在の深層へ落ちてゆく・・。

何より印象的だったのはそのステージング。ワタシが観た広島のホールはパルコよりうんと広いから印象もまた違うのかもしれないけれど、机や椅子、コート掛けやベッド、本棚やベンチ、それらが役者によってスルスルと移動させられ、シーンは形を与えられる。「水と油」の小野寺修二さんの振り付け。

(蔵之介さんはこのおしごとの話以前に、個人で小野寺さんのワークショップに参加されたこともあるそうで、何時もながらその意欲にはアタマが下がる。)

そのダンスともつかない動きのなかで個人と個人の境目は淡くなってゆき、誰かが誰かの分身だったり、只の黒子のような存在は影のようでもあり、急に明確な色を帯びたかと思うと誰ともわからぬ幽霊たちに戻って街に溶けてしまったりする。

照明によって影は2つになったり大きくなったり無くなったり。この舞台のために作られた音(三宅純さん)も、街の映像もとーっても素敵!知識がないので説明は不可能。観劇のあとで美術は松本るみさんだったと気づく。振り付けと相まって陰影の深さを感じさせてくれる。それらの効果を存分に生かしながら、物語ともつかないブルーの心象風景や妄想は細かいパーツに分けられ、まるでパズルのように、ところどころではきれいに彩色をほどこされながら嵌められてゆく。効果的にそのコマの嵌ってゆくさまが心地よい。この種の舞台を生で観たのは初めてかもしれない。普通地方ではお目にかかれないタイプのステージング。

一緒に観たマサコさんが、あの長さのコートは日本人には無理じゃない?って。ワタシにはわからないけれど、まあ、ロバート・ミッチャム以上に似合うっていうのは日本人じゃ無理かも(笑。暑い時期でもあるし、舞台の上の動きの多さを思うと生地の厚い衣装は無理なのかもしれないけれど、質感が少しさらりとしていた気も。照明やいろんな条件の中での今回の衣装の色彩の明度は、視覚的に大切な要素だったのかもしれない(衣装は太田雅公さん)。

役者さんたちもそれぞれにいい味。全体が上質な肌触りなのはそのことが大きいと思ふ。安定感はもちろんのこと、心身に酷しい稽古に身を置いてこられたことにも敬意を。細見さんのお声、斉藤さんのフレッシュな持ち味、言わずもがなの有川さん、原金さんの存在感。市川さんはきっとこれからうまくなっていかれるのでしょうが、人形のようなお姿。奥田さんの毒と艶、ごちそうさまでした。でナレーションやら変装やら八面六臂の蔵さんブルーに対して、過剰にお喋りにならずともいいのだもん、ずるーい。動きも色っぽくてうっとり。

全体の印象はワタシの場合、映画か何かのようにまず白井演出ありき、かな。内省的な内容を見せるものとしては、素晴らしく開かれたエンタテイメントだったと感じました。あと、白井さんのオースターへのアプローチの深さも肌で感じました。

ブルーの役に対しては客観的になれない部分も大きいけれど、それは食べ物のように好き好きかもしれません。何せたった1度の幽霊たちとの逢瀬、蔵之介さんのあれやこれやは汲む余裕が無かったかも。人間らしい蔵さんブルーですが、それは蔵之介さんの持ち味でもあり演出の要素も重なって。もっとスマートなブルーも好きだと思ふ。それは多分に福田和也さんがコラムで蔵之介さんに呈した「?」を意識したまま観たせいもありますが、例えば若き白井さんがブルーだったら?、あるいは若き手塚さんだとしたら?と置き換えてみる気持ちもありました。以前に大石静さんが役者の「場所の占有率」という言葉を使われたけれど、その意味でも蔵之介さんには蔵之介さんの魅力があり、体温を感じる、他人事にならないという感触は蔵之介さん故ではないか。

原作のブルーはぼんやりした記憶ではうんと若かったと思うのだけど、もちろん舞台では実年齢はどうでもよいこと。視覚的なたのしさも大きかったので、誰にでも親しめる舞台作品という印象を残したものの、結局はベケットの「ゴドーを待ちながら」などと同類のものだと思ふ。不条理劇とはどういうものか?ということから勉強しなくちゃならないかもしれないけれど、カフカだって安部公房だってそのわかりにくさだからこそ繰り返し楽しむことが出来る。「幽霊たち」はオースターのなかでもやはり最も原型の作品といってもいいと思ふ。つまり、再演も可だと思ふ。

( 「不条理」の語源はフランス語の「absurdite」。英語では「absurd」。『異邦人』のアルベール・カミュが用いたことから使われるようになった。『不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ』 アルベール・カミュ )

「幽霊たち」はオースターがまず戯曲を書き、それを元に小説にした作品。劇中のブルーの独白も柴田元幸さんの訳にそのまま重ねられている。


「だが物語はまだ終わっていない。まだ最後の瞬間が残っているのだ。それが訪れるのはブルーが部屋を去るときである。世界とはそういうものだ。一瞬たりとも多すぎず、一瞬たりとも少なすぎない。ブルーが椅子から立ち上がり、帽子をかぶり、ドアから外に出ていくーーーそのときこそが終わりなのだ。
そのあとブルーがどこへ行くかは重要ではない。・・・私個人としては彼がはるか遠くの地に旅立って行ったと考えたい。・・・どこかの港で船の切符を買い、中国へ発つ姿を。そう彼は中国に行った、そういうことにしておこう。いまやそのときが来たからだ。ブルーは椅子から立ち上がり、帽子をかぶり、ドアから外に出ていく。この瞬間からあとのことは、我々はなにひとつ知らない。」


事件で終える物語ではあるけれど、ブルーが住んだアパートメントのドアは開けられ、明るい余韻を観客の胸に残す。ブルー、バイバイ。グッドラック!
                            
まだ福岡、大阪の公演を残していますが、ワタシは幽霊さんたちとはもうお別れ。まったくとりとめもなく書きなぐり、これでおしまい。読むつもりで読み終えることが出来なかったオースターの本の残りとはまだこれから夏の間も仲良くします。ポール・オースターありがとう。白井晃さんありがとう。蔵之介さんありがとうございました。










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映画 「過去を逃れて」
 


 「 もともと映画は嫌いではない。ストーリーを追うのも好きだし、美女を眺めていられるの
   も悪くない。だが彼は何よりもまず、映画館の暗闇自体が好きなのだ。スクリーンの上
   の映像というのが、目を閉じると頭の中に浮かぶイメージにどこか似ていて、それが気
   に入っているのである。映画の種類にはあまりこだわらない。コメディーでもドラマでも
   いいし、白黒でもカラーでもいい。ただし探偵が主人公の映画には特に弱い。  」

                                          ( 「幽霊たち」 P52 )


舞台の原作である「幽霊たち」を再読して、やっとその中に出てくる映画「過去を逃れて」を観ることができました。「幽霊たち」はほんの薄い120頁ほどの本ですが、オースターはその中でわざわざ丸3頁ほどもつかって映画のストーリーについて説明しています。小説の中でそんなに長々説明される映画などあまり他では見たことがないという気がします。

上の画像の女性のほかに、もうひとり官能的な悪女、ファム・ファタールが出てきてそちらの方が俄然印象的なのですが、主人公の元腕利きの探偵ジェフ・ベイリーは、過去を逃れて、どこでにでもいるような優しい女性と結婚して、ありふれた町で、ありふれた市民になることを望んだのです。

1947年の作品だそうで、想像していたよりうんと素敵なフィルム・ノワール! フィルム・ノワールという言葉は聞きかじりですが、フランス語で「暗い映画」の意。1940年代から50年代にかけて主にアメリカで作られた虚無的な犯罪映画を指して使われるもののようです。フィルム・ノワールの代名詞といってもいいこの作品、陰影も濃く、映像も美しく、鋭くて悲劇的な展開です。

主人公自身の声で挿入される前半のナレーションなどは例えば以下のように、白黒の美しい画面を引き立ててとってもムーディー。美しい男女が夜の浜辺で交わす甘く苦しい抱擁や接吻にすっかりうっとりしてしまいます。


 「 彼女と会うのは夜だけだった。
   昼の名残は煙草の煙のように消して。
   彼女の家も探さず。
   約束の時間に約束の場所に行く。
   先のことは何も考えなかった。
   滝に打たれても覚めない夢のよう・・   」  

           (「過去を逃れて」より引用)


ストーリーの説明はオースター氏にお任せするほうが良いでしょうが、ギャングのボスに雇われたジェフはボスの愛人を探すことになり、見つけたその彼女に為す術もなく恋をしてしまいます。そこからロマンチックに始まって、2転3転。若きカークダグラスのボス役も悪くて素敵。主人公のジェフを演じているロバート・ミッチャムは甘いルックスがもうめちゃめちゃ素敵です。そして、ファム・ファタールを演じているジェーン・グリアときたらこれぞまさにTHEファム・ファタール!!

小説「幽霊たち」の中でブルーは、2晩続けてこの映画を観に出かけます。そして「過去を逃れて」だけども、ついには逃れきれなかったジェフに自分の現実を重ねてゆきます。


 「 彼は過去によってマークされてしまったのだ。ひとたびそうなってしまえば、もうどうし
   ようもない。 ブルーは考える。いったん何かが起きてしまえば、それは永遠に起こり
   つづけるのだ、と。2度と変えることはできない。永遠にそうであるほかは無いのだ。
                      
                      (    中 略    )

   彼はそれを一種の警告として受け取る。彼の内部から発せられた一種のメッセージと
   して。いくらそれを隅に押しやろうとしても、この思いの暗さが彼に取り付いて離れない。」

                                           ( 「幽霊たち」P56 )


映画の中の探偵ジェフはいかにもの帽子と身幅の広いトレンチコートがすこぶるお似合いです。ウエストのベルトは無造作にコートを縛っていて、当然ながらクラシックな車に乗ったり、街を足早に歩いたり。観ているうちにこれはブルーの姿と思ってもいいのじゃないかしらと、ブルーの舞台の姿と重なってきました。

早く舞台のブルーにお会いしたいなぁ。500円ポッキリで入手できるこの映画、文句なしでオススメです。









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H・D・ソロー著 『ウォルデン』 その1
舞台が始まるまでには読みたいと思っていたH・D・ソローの「ウォルデン」も、読むことが出来そうにありません。せめてソローとはどういう人で、どんな本なのかくらいは知っておきたいと思いながら。
「幽霊たち」のブラックやブルーの様子からも察せられのですが、どうやら急いで読んだりするのに最もふさわしくない本のようです。

先にソローのことについて書くのがいいとは思うのですが、まずは『ウォルデン』を少しご賞味あれ。雰囲気とゆうか価値観とゆうか、オースター作品に通じていると思います。



「望遠鏡や顕微鏡ごしに世界を眺めるが、おのれの肉眼で見ることはない。化学は勉強しても、おのれのパンの作られるすべを知らず、いくら機械学を学んでも、パンを手に入れる手だては分からない。海王星の新しい衛星を発見しても、おのれの目の塵は見えず、おのれ自身がどういう無軌道な無法者の衛星であるかも見破られない。………自分で掘り出し、溶解した鉱石から自分用のジャックナイフを、そのために必要な本を読破して作った青年と、そのひまに大学の冶金学の講義に通い、父親からロジャーズ製の小刀をもらった青年と、いったい一ヶ月たったらどちらが大きく成長しただろう。」 『ウォルデン』73頁

「ぼくらはメインからテキサスまで電信を開通しようとおおわらわだが、しかしメインもテキサスも、おそらくは通信に価するほどの情報を持ち合わせてはいまい。どちらの地域も、たとえば耳の不自由な名流婦人に紹介してほしいと熱望しながら、いざ面会がかない、彼女のらっぱ型補聴器のいっぽうの先端を手渡されると、言うべきことを持ち合わせない人と同様の苦境にある。知恵あることを語るより、口早に語ることのほうが主な目的とでも言わんばかりだ。」 『ウォルデン』74頁

「ぼくが森に行ったのは、慎重に生きたかったからだ。生活の本質的な事実だけに向きあって、生活が教えてくれることを学びとれないかどうかを突きとめたかったからだ。それにいよいよ死ぬときになって、自分が結局生きてはいなかったなどと思い知らされるのもご免だ。ぼくは生活でないものは生きたくなかった。生きるとはそれほどに貴いことだ。」 『ウォルデン』137頁

「どうして僕らはこんなに慌ただしく、こんなにいのちをむだ使いしていきねばならないのか。飢えもせぬうちから餓死すると決めこんでいる。今日の一針は明日の十針などと世間では言うが、その流儀で明日の十針を節約するために今日は千針も縫ってしまう。仕事はと言うと、これと言うものは一つもない。」 『ウォルデン』140頁

「一日はぼくの何かの仕事を先導する明かりのように進んでいった。朝だとばかり思っていたのに、それがもうあっというまに夕暮れだ。しかも記憶に価することは何一つ成し遂げていない。鳥のように囀る代わりに、ぼくは途切れることのないぼくの幸運が嬉しくて、黙ったままで微笑していた。」 『ウォルデン』171頁

「楽しみを外に求め、社交や芝居見物に余念のない人びとに対して、ぼくの生き方には少なくとも一つ長所があった。ぼくには生きること自体が楽しみとなっていて、ついぞ鮮度の落ちたことがない。ぼくの生活は見せ場がいくつもある終わりのないドラマだった。」 『ウォルデン』172頁

「 ほとんどの時間を一人で過ごすことは健康的だとぼくは思う。たとい相手が選りぬきの人でも、誰かといっしょにいるとすぐに退屈し、疲れてしまう。ぼくはひとりが大好きだ。孤独ぐらいつきあいやすい友にぼくは出会ったためしがない。自分の部屋から出ないときより、どんどん人中に出ていくときのほうが、ふつうはずっと寂しいものだ。考えたり働いたりしていると、人はどこにいようといつも一人だ。」 『ウォルデン』206頁

「交際の代価はふつうあまりにも安すぎる。ぼくらは相手のために何か新しい価値をまだ身につける時間もなかったくせに、ほとんどあいだを置かずに顔を合わせる。日に三度食事の時に顔を合わせ、黴くさい古チーズ同然のぼくら自身をまた新しく味わう。これだけ頻繁な出会いをなんとか辛抱できるものにし、たがいに敵同士にならなくてすむように、礼儀作法という名の一連の規則についてぼくらは合意しなければならなかった。」 『ウォルデン』207頁

「ぼくの家には実は仲間がわんさといるのだ。特に訪ねてくる者のいない朝のうちが賑やかだ。」 『ウォルデン』208頁

「ぼくはわが家の煙突を築く段取りになったとき煉瓦の積み方を習い覚えた。………ぼくが一番手間どったのは、家の心臓部である暖炉のあたりだった。現にぼくの働きぶりは実に慎重で、朝は地面から仕事を始めるのだが、夜には床からわずか数インチ、一段だけの煉瓦の列がぼくの枕がわりになってくれるというあんばいだった。」 『ウォルデン』364頁





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ポール・オースター作品
                 


昨夜はやくに眠ってしまったので、朝早くに目が覚めた。眠くなったらもう一度眠ってしまうつもりでポール・オースターの「リヴァイアサン」のつづき読み始めた。雨の音を聴きながらお布団で小一時間。 嗚呼、たのしかった。

5月になってから少しも本が読めなかった。舞台「幽霊たち」に会うまでに、オースター作品をざらっと読みたいと思っていたのだけれど、どうもそこまでは果たせぬらしい。関連の有名小説も当然無理っぽい。ともかくオースター作品全体がどんなふうだか確かめていないままなので、ちょっと見渡してしてみることに。

作品
  • 「孤独の発明」 (The Invention of Solitude 1982)
  • ニューヨーク三部作 (The New York Trilogy 1987)
    • 「シティ・オブ・グラス/ガラスの街」 (City of Glass 1985)
    • 「幽霊たち」 (Ghosts 1986)
    • 「鍵のかかった部屋」 (The Locked Room 1986)
  • 「最後の物たちの国で 」(In The Country of Last Things 1987)
  • 「消失 ポール・オースター詩集」(Disppearances : Selected poems 1988)
  • 「ムーン・パレス」 (Moon Palace 1989)
  • 「偶然の音楽 」(The Music of Chance 1990)
  • 「リヴァイアサン 」(Leviathan 1992)
  • 「空腹の技法」(Auggie Wren's Christmas Story 1992 )
  • 「ミスター・ヴァーティゴ 」(Mr. Vertigo 1994)
  • 「ティンブクトゥ 」(Timbuktu 1999)
  • 「幻影の書」 (The Book of Illusions 2002)
  • 「オラクル・ナイト」 (The Oracle Night 2003)

   ● 「The Brooklyn Follies 」2005
   ● 「Travels in the Scriptorium 」2007
   ● 「Man in the Dark 」2008
   ●  「Invisible」 2009

 映画脚本

   ● スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス 」 
   ● 「ルル・オン・ザ・ブリッジ」


映画は両方むかーしむかしに観たのだけれど、オースター作品と意識していたわけではなかったので、これらはもう一度観てみた。小説は青字のが読了済。和訳が出ていなのは到底無理。これから読むつもりの文庫は手元にある具合だが、「空腹の技法」は無かったので、図書館からのお下がりの古本を50円でポチっと購入。これは小説ではなく、若き日のエッセーやインタビューをまとめたものらしい。あと、日本だけで出ているエッセイ集「トゥルー・ストーリーズ」2007、これも未読。

オースター作品を知識がある人が読めば、アメリカの歴史や文学の軌跡や詩についてのいろいろな部分と繋がっていくというのは、知識がまったく無くともそうなんだろうなぁと言う具合には察せられる。
多少なりとも汲めないのはかなり残念。

ど素人が恥ずかし気もなくごくごく大雑把なことを言うならば、オースターの作品の中にはオースターを当てることができる人物が大方出てくる。そして、例えば石だとか、赤いノートや赤い車だとかの色のモチーフ、音楽、野球、美術館、ここではないどこか、曖昧な時間軸だとか覚束無い主体だとか。そんなものがしばしば現れる。どれをとっても明らかなオースターの世界。「幽霊たち」は初期作品だしとても短いものだから、世界の原石かもしれない。オースターの思索の起点であるがゆえに、もしかして卵のように世界の全部を中に湛えているのかもしれない。

そして物語たちは、オースターの実人生をなぞるように、経済困窮による結婚の失敗だとか、叔父から預かったダンボールいっぱいの本だとか、父からの遺産だとか、芸術家批評だとか。そんなモチーフがお馴染みであるように思う。

そして面白く展開してゆく物語の中で、自分が問われてくるように感じる。他者と関わるとき自分が納得できる決断とはどういうものか、とか、どんな風に自分と他者を救うことができるのか、とか。(この前聴いたばかりのカウンセラーの先生の心のはなしを連想するなぁ、そういえば。) どこかファンタジーめいた物語に完全にのまれているのだけれど、その中でぼんやりと考え事をしながら流されてゆくのは何とも心地よく感じられる。








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映画  「 ルル・オン・ザ・ブリッジ 」
   


ポール・オースター入門のつづきとして、映画「ルル・オン・ザ・ブリッジ」を観る。初めて観たのはもうずいぶん前、1998年の映画ですからそのころ、DVDで観たのだったと思う。お洒落な映画として取り上げられていたようなイメージだけど、よくわからない作品だな、くらいにしか思わなかった気がする。題名を忘れなかったのは平井堅さんの歌「L'Amant」(音が出ます♪)の歌詞にラヴストーリーの名前として出てくるから。

あたらめて観て、オースターの作品として観ればその意味がくみやすいのだけれど、脚本や制作でこれまでも映画にかかわっていたといってもオースターは初監督だし、無理からぬことか?ヴィム・ベンダースが監督することになっていたのだれど、そうなった経緯などは脚本の「ルル・オン・ザ・ブリッジ」で詳しく語っている。

物語は寓話的でもあり、オースターの言葉を借りれば「深い思いやりや強い気持ちに関する物語」。サックス奏者の男イジー(ハーヴィー・カイテル)が撃たれ、死の間際に別の人生を夢見る。見ている間は観客もそれを夢とは思っていない。

イジーは銃で射たれた男を発見し、そのカバンの中に魔法の青い石を見つける。その石とかかわりがあると思い、訪ねる先は女優のたまごであるシリアという女の子。ふたりは深い絆で結ばれるが、そのことで事件が起き始める。映画のなかの映画制作。イジーを襲撃する殺し屋。イジーを尋問する男・・・苦い結末。

オースターがインタビューで夢や幻想について語っている。「そのことを知る、知らないにかかわわらず、信じていない限り人生は意味をなさない」。隣人を信じられない、自分をわかってもらえない、そんな牢獄のなかでいかに生き延びるか?イジーは息をして、食べて、寝る、正気でいられるよう努力する。新聞を読む。そんな剥き出しの辛さはワタシたちと何も変わらない。そんなイジーがみる夢。

オースターは「夏の世の夢」を例えに出し「妖精の粉を男の目にぱらぱらと振り掛けると男は恋に堕ちる。確かにありえないことだけれど、だからといって本物じゃないわけではない。人生に忠実じゃないわけでもない。だって恋愛って結局は魔法じゃないか?」。つまりイジーとシリアを結びつけた青い石も同じこと。

また「自己の真髄は他人とのかかわりの中でしか見出せない。それこそが大きなパラドックスなんだよ。自分を手放してもいいと思えるまで自分はつかめない。」「誰かを愛せるようになるまで自分自身にはなれないんだ」と。

それらのことはオースターの作品のどれを取っても通底している気がする。もちろんまるごと消化はできないけれど、この物語だとイジーは自己の欠如を最後の夢で贖い、それまでの自分とは違う自分を手に入れる。

物語の流れの真ん中じゃないところなんだけど、元妻のハンナとイジーの会話のところが好き。ハンナはイジーとまた暮らそうとは思って無いし、良いパートナーがいるんだけれどそれでも「だからってあなたのこと好きじゃないわけじゃないわ 今でもあなたは私の一部なのよ」と。そのあとふたりは電話で会話するのだけど、そこも好き。ワタシがシリアみたに若くないからかなぁ(笑)。





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ポール・オースター著 ニューヨーク三部作 その2
 

    まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、

    そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。
    『 幽霊たち 』 冒頭

写真はペーパーバックのニューヨークトリロジー。3部作が1冊に集められています。やはりそうやって読むのがしっくりくるという気がします。レビューで、前のふたつ(「ガラスの街」・「幽霊たち」)は「鍵のかかった部屋」の長い長い伏線と言ってもいいと書いていらした方がありましたけれど、たしかにそういうふうに言ってもいいかもしれません。

前のふたつの小説はファンタジーの断片がポツンと差し出された感じを受けます。物語らしくてなじみやすいのは最後の「鍵のかかった部屋」かな。断片といっても「ガラスの街」はさほど短くはありません。それは読みにくいというのとは違うのだけど、ワタシは3つ読んでみてやっとオースターの世界になじんできたという気がしました。

オースターの小説はこのあと『ムーン・パレス』を読んだところで止まっているのですが、どれにも赤い表紙のノートだとか、幽霊という言葉は出てきて、オースターにとってはとても大切なモチーフということらしいのです。名前のわからぬもの、自分が誰であるか、あるいは文章とそれを書くわたしとの関係。書くということや名前へのこだわりも見えます。

「幽霊たち」はオースター自身が以前に書いた戯曲を下敷きにしているということを、蔵之介さん仲間のマサコさんに教えていただきました。それはオースターふぁんにはよく知られていることのようで、いったいどんな戯曲? その奇妙な現実感、またそれを戯曲で空間に立ち上げようとするあたりがやはり安部公房やカフカを思い浮かべてしまいます。

三部作のどれもが不在の人物に関する依頼に始まり、次第にアイデンティティが崩れてゆくことを経験してゆく。訳者は、オースターが敬愛しているエドガー・アラン・ポーの作中人物がそうであるように、オースターの作中人物はたがいがたがいの影のようだと書いています。おそらくその影を「幽霊」という言葉であらわしているのじゃないでしょうか。具体物は常に抽象的次元を思向しているようです。

あるいはそこにいない人のことを呼び起こして(思うことや、読むことや、書くことによって)自分を他者の幽霊にしたり、自分の幽霊を生み出したりしています。「どこでもない場所」、「誰でもない人間」。「エレガントな前衛」という言葉をオースターに冠しているのは訳者。現実的でありながら、非現実感がみごとに混じり合っています。

残念ながらワタシにはアメリカ文学の知識も皆無なので拾えませんが、この3部作は「アメリカ文学史の最良の入門書」とも言われているらしく、いろいろな文学作品のモチーフに触れているそうです。舞台でも採用されているのはナサニエル・ホーソーンらしく。

幽霊、幽霊、幽霊。おそらくですが、オースターの作品のどれもが幽霊について語っていて、それを読むワタシたち、それを観るワタシたちはオースターの幽霊になることを味わうことができる。そして、三部作だけを取り上げるとしても、それは「幽霊たち」と総称しても良くて、「幽霊たち」を味わうことはそれをまるごと受け取るってことではあるまいか? 何も説明したりできなくても、只幽霊になることを悦んで経験すればよいのじゃないかしらん。と、そんなふうに思えてくるのでした。


    「 だが僕の頭はいつも、ひとつの空白を浮かび上がらせるだけだった。せいぜい
      出てくるとしても、あるごく貧しい情景に過ぎなかった----鍵のかかった部屋のド
           アそれだけだった。ファンショーは一人でその部屋の中にいて、神秘定な孤独に
      耐えている。おそらくは生きていて、おそらくは息をしていて、神のみぞ知る夢を
      夢みている。今や僕は了解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるのだという
           ことを。 」

                                           鍵のかかった部屋
         
( ■ ポール・オースター著 ニューヨーク三部作 その1 ■ ) 







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ポール・オースター著  ニューヨーク三部作 その1
       

蔵之介さんの舞台のおかげで今まで馴染みのなかったものに親しくなれるのは何時もたのしい。これまで、漱石だったり、シベリア抑留のことだったり、戦後のGHQの占領のことだったり、聖書のことだったりしたなぁ、と振り返る。そうそう、遅筆堂先生のおかげでケストナーも何冊か読んだのだった。

次の舞台はポール・オースターの「幽霊たち」が原作。ワタシは翻訳ものにはあまり縁が無くて、近年では村上春樹さんの訳を数冊読んだくらいだろうか。そして、蔵之介さんも翻訳ものにはほとんど縁がおありにならないと思う。なので、たいそう嬉しい。少し違った色の演技を拝見したいと切望していたからだ。そしてワタシの方も、自然には手にしない本を読むたのしみにめぐり逢える。

「幽霊たち」というのはオースターの初期の三部作の中のひとつだと知ったので、その順番を守って読むことにした。出版の事情で「ガラスの街」は柴田元幸さんの翻訳では単行本が出ていないので、「Coyote」という雑誌で読むことに。前にも書いたけど、この雑誌のこの号はオースターと柴田さんの対談やニュヨークを散策する柴田さんのグラビアなどあってたのしい。

三部作を読み終えたのは先月の初旬なので印象は少し遠ざかっていて、そのときの自分のTweetを振り返ってみる。


「ガラスの街」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」の3作はトータルした作品といっていいかも。同じことを繰り返しているともいえる。

鍵のかかった部屋、あるいはむかいのアパートメントの部屋、あるいは安ホテルの部屋で犯人は神秘的な孤独に耐えている。その犯人を偵察しているはずの探偵は、それら部屋は実は自分の中にこそあるのだということに、どこかで気づく。

どこかで気づくと言ってしまえば簡単だけど、読む方もちょいとパワーが必要。ベケットのゴドーを待ちながらだとか、カフカや安部公房を読む心構えでないと。

「不条理」の語源はフランス語の「absurdite」。英語では「absurd」。「異邦人」のカミュが言い出したらしい。 

不条理演劇は、人が生きることの不毛さ、生と死、道理や条理では割り切れない人の不条理さなど人の存在そのものを問うている演劇だと思われます。







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