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遠藤周作 著 「死海のほとり」のこととか
            


 遠藤周作さんの「死海のほとり」を読み終わって、「イエスの生涯」と
「わたしのイエス」を少しづつすすんでいます。
遠藤さんのイエスは日本人にはとても馴染みやすくて、遠藤さんは
それでいいのじゃないかというお考えにたどりついておられたのだと
思います。キリスト教という洋服を自分の身体に合う和服に仕立て直
してみようとされて、それは今ではキリスト教の教団の側からも認め
られるようになってきたということのようです。

宗教と政治というのは不可分。
ともかくローマ帝国の占領下にあったユダヤが求める救世主は宗教
を改革するものであると同時に政治革命家でもあったわけで。
そこにあって遠藤さんのお思いになるイエスはいわば現世利益を言
わないひたすらな愛の人だった。らい病の人にも蔑まれるべき税収
人にも娼婦にも、貧しい人にも悲しい人にも。
それまでの怒れる神、罰する神の教団のなかでイエスは優しさを求
めたのだと。

 らい者や熱病患者や淫売婦ばかりたずね歩き、義人や有徳の人
 を避け、それら忌まわしい者たちのほうが、我々より愛することを
 知っているとさえ口にした。彼は人生のうつくしいものを拒絶して
 よごれたものを偏愛している狂人のようだった。

民はイエスの愛に打たれるのですけれど、奇跡を起こさない、病気も
治さない国を救う為に立ちあがるものでもないことに失望し、イエスを
何もできない男と認識し、期待に応えなかったことによってイエスに石
を投げるまでになり、弟子もイエスのことを理解できない。
勝手に期待し祀り上げる、がっかりして勝手に貶める、何も考えずにむ
ごさを発揮するのは人の常なのか。

遠藤さんのイエスを読んでいて思い浮かんだのは法華経に出てくる
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)でした。常不軽菩薩はどのような人
に対しても「我れ、深く汝らを敬い軽んぜず」と説き、礼拝しましたが、
石や杖で追い払われました。しかし誹謗迫害されてもそのことを決して
うらむものではありませんでした。
法華経という連想もありますが、宮沢賢治のようなイメージとつい重ね
てしまう常不軽菩薩です。

ユダヤ人の収容所で、死を命ぜられたものの代わりに自分を差し出す
神父のはなしが出てきます。そこで、主人公はその神父はイエスの死
をマネしようとしたのだろうかと考えます。もしイエスの死が頭になけれ
ばそんな行為はしなかったのではないか、と。
そして「イエスの復活とは、人間がそういう愛の行為を受け継ぐというこ
とかしらん」とつぶやきます。

イエスの死は教会の解説では我々の罪をすべて背負ったというふうに
語られるものなのでしょうか。
友のために命を棄てるほど大きな愛はない・・・・そうなのかしらん。
でもイエスは結局助けることができなかった病人や娼婦や老人のことを
何時も考えていた。

遠藤さんにとって母親からあてがわれたキリスト教が捨てられないもの
であったように、宗教というものの縁はたとえば作家でも先生でも友人で
も、そういう誰か人を通してしか身近なものにはならないような気がします。

余談ですけれど、親鸞のことを敬愛なさっている吉本隆明さんが今日
宮沢賢治賞というものをお受けになったというのを読みました。
今更吉本さんにどんな賞も別に、という気もしますけども、そこはそれ
宮沢賢治という人の力というものは断ちきれないというか、そういうことを
思ったのです。
で、常不軽菩薩のことがどーも頭から離れないので、うまく説明できない
んですが、自分の中ではほんの少しイエスと繋がったような感じがあって。
いえ、大きな勘違いというか、的外れかもしれませんけれど。

ありのままをありのままに受け止めることができる地平というものがキリ
スト教にせよ仏教にせよ、力なのじゃあないかとかでたらめをほざいてみ
たりいたします。


( このまえの堺さんの料理人の記事をきっかけに久々のぞいたイトイ新聞
  にこんな ↓ 記事があって、おもしろかった。
  親鸞  吉本隆明・糸井重里 @ ほぼ日刊イトイ新聞 )




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キリスト教入門 5
神に愛されたノアのおじさんには後日談があって、そこらへんは
現代人の感覚で読んじゃあダメだよ、ということなのか。
あるいは人間的で愛するべきおじさんじゃあないのさ、ノア。
と、思うべきなのか。
  

      洪水のあとノアは葡萄を栽培してしていて、葡萄酒の醸して飲み
      泥酔してしまう。
   裸のまま寝てしまったノアを見て、セム・ハム・ヤフェトの3人の息
   子のうちのハムが
   ーーー父ちゃんはいい体してるなぁーーーと欲情をかきたてられ
   男色に耽ってしまった、と。ええっ?!親子ですよ!
   これは阿刀田さんのご本に書いてあって、他の和訳とか入門書に
   はそうとは書いてございません。

   普通のご本に書いてあるところによれば、ハムが「父ちゃんが何も
   着ないで寝てるよーー」とノアをそのままにし、あとの2人はノアの
   姿を見ないようにして着物を掛けましたとさ。
   そんでもって、酔いから覚めたノアはそのことを聞いてハムにすっ
   ごく怒って、「おまえなんて呪われてしまえ。奴隷になってセムとヤ
   フェトに仕えなさい!!!」と言ったと書いてございます。

   でもね、なんかすごく不自然な気がしたわけですよ。そんくらいで
   そんなに息子を怒るっていうのがね、寓話だとしてもちょっとな・・・。
   そこで、欲情をかきたてられた・・・と聞いたらすごく納得したという
   わけで。
   そんなのあかんのよ、というおはなしだとしたらよくわかるよねという、
   どーでもいいかもしれませんが(笑)。
   あ、ハムを呪ったんじゃなくて、ハムの息子、つまりノアの孫ですが、
   孫のカナンを呪ったというはなしもあるそうです。

   で、着物を掛けたセムはユダヤ人の先祖でアブラハムを生んでいく。
   なんてったって旧約聖書の真ん中の大きい部分はアブラハムに始ま
   る歴史物語でイサク・ヤコブ・ヨセフ・モーセ・ヨシュア・ダビデ・ソロモ
   ン・・・・・・・・と延々つづくイスラエルの民の歴史、王道なのだ!なの
   で、セムはそれらの祖となる。

   ヤフェトはその他に広がってインドやヨーロッパなどなど。こじつけれ
   ば、大和民族もこの流れでしょうか?

   で、お父ちゃんに呪われちまったハムはアフリカを中心とする民族の
   祖というようなことも言われるようですが、今時そんなことは通用しま
   せんってね、ということであらためて言われるということは無いようです。

   人間ってさ、どっちにしてもダメダメなんだけど、そこんとこよーく自覚
   して素直な心で再出発してみなさいね。
   ワシって恵み深いからね。正義と愛の神だからね。
   というふうなおはなしだったかもしれない、ノアの箱舟。




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キリスト教入門 4
何をやってるんだかわからないまに秋めいてきました。そろそろくつ
下もはかねば。舞台とは関係無いんだけど、少しはキリスト教の基
礎知識が欲しいなんて言ってるまに、舞台もそろそろ千秋楽ですね。

まあ、もののついでなのでノアのつづき。

主ヤハウェは人々が常に悪いことばかり思い、地が暴虐で満ちてい
くのを見て地上に人を作ったことを後悔した。そして「神に従う無垢な
人」であったノアとその家族だけを生き延びさせ、他のすべてを滅び
させるように箱舟の建設を命じた。

なぜノアなのか?というのがおそらく大きいポイントなのでしょうが、
自分が完全な人間で無いことを自覚しており、人に何と思われようと
も絶対の神への信頼を持って多くの労力や時間をかけて箱舟を作り
あげるというかたちで神からの思いに応えた故ということでしょうか。

箱舟は長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートルほど
の3階建て。たくさんの小部屋があり、内外にタールを塗って防水。
(大型船安定の黄金比にかなっており、タイタニック号くらいっちゅー
 ことになるらしい)

ノアは500歳で3人の息子をもうけており、セム・ハム・ヤペテ。
(年齢がよーわかりませんが、)
舟が完成したのは600歳の時で、自分の妻と息子とその妻たち計8人
が乗った。それと多くの動物たちのつがい。

それで長く激しい雨が地上を襲いはじめ40日40夜つづいて洪水と
なり、地上の山々も水に浸されてすべての動物が溺れて死に絶えた。
(なんともむごいですな、)

舟はアララト山の上にとまっていた。
(現在のトルコ共和国の東端)

150日経って水が退き始め、大地が現れるまでは1年ほどを要した。
そのあいだ、ノアは何度かハトを放して地上の様子をたしかめた。は
じめ何度もとまるところが無く帰ってきたハトは、何度めかにオリーブ
の葉をくわえて戻ってきた。

     

国連の旗もそんな平和・再生の象徴とされるオリーブの葉があしらわれ
ており。第2次大戦からの再生を誓ってつかわれた。イスラエルの国旗
にも。こちらはノアの子孫?だから当然か?

大地が乾くとノアは祭壇を築いて神に感謝を捧げた。たぶん「あなただけ
を敬って生きていきます」と言ったに違いありますまい。そうしたら神は、
ノアの子孫の繁栄と地上のすべての肉なるものの繁栄を約束し、人間が
それらを食していいよと許したということらしい。肉食の許可?
(イスラム教で血を含んだ肉など禁じているのはその時の命令の1つに
よる)


 
                (ミケランジェロ 「ノアの祭壇」 システィーナ礼拝堂)


 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の
 うちから取り、焼き尽くす献げものとして祭壇の上にささげた。主はなだ
 めの香りをかいで、御心に言われた。
 『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い
 ときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つこ
 とは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、
 夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。』      創世記8章


素直に感謝したノアは神に愛されたというわけで、例の家族を乗せて走る
自動車のネーミングとして「ノア」が採用されたのも全く持って納得という
わけですな。めっちゃ自分の家族を守ってますもん、ノア。

神はもう生きてるみんなを絶滅させるようなことはしないからね、と約束して
くれて、その約束のしるしにお空にきれいな虹をかけましたとさ。神と人間と
の愛のかけはしだよ♪♪ めでたし。



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キリスト教入門 3
                          
  
     ( ミケランジェロ「洪水」  システィーナ礼拝堂天井画より )

  この前キリスト教入門のはじめのはじめのころ、輪廻が仏教以前の概念だった
  ように、終末論もキリスト教以前なのかなと思ったというようなことを書きました。
  どうやらそれはあったりまえのことらしくて。どこで読んだのだったか、聖書には
  黙示録てきなはなしは一応ヨハネの黙示録しかないけど、ユダヤ教イスラム教
  にはようけ出てきまっせと。国を滅ぼしたり滅ぼされたり、自然も厳しい風土のこ
  とですからそういう発想になるのかなとか想像。ちょっと小耳にはさんだくらいの
  ことで、不確かなことなんですけど自分的にはそれはそれで棚にあげておく。黙
  示録のところってすごくファンタジーちっくで読みにくいですしね。

  実際の聖書を読むのは面倒なので開いていませんでしたが、ノアの方舟のとこ
  ろだけ読んでみました。しかし神様のすることはよーわからん(笑)。我が家の中
  学生女子は学校で聖書の授業というのを受けてますのでそのサブノートというの
  も見せてもらいましたが、旧約聖書のはじめらへん、ゆーたら肝心なところですが、
  アダムとイブが出てきてどーたらとかカインとアベルとか、ノアの方舟とバベルの
  塔の創生記のことなど。

  「えっ、うそー!」というところは「神話的」にとらえて、「世界と人間のあるべき姿
  (理想と目標)」が書かれてあるのであって「歴史的な事実として書いてあるんじゃ
  ないんだよということに注意しませう」というふうに、初な中学生を説得してあるあ
  たり、まことに親切。
 
  で、ノアの方舟ですが、古代のイスラエル民族が暮らしたメソポタミアにはチグリス
  ユーフラテス川があって、たびたび大洪水が起こったということに起源してんのね、
  と。川の下流らへんのバビロニアの洪水物語を下敷きにしていると言われているら
  しいけど、大洪水物語というものは世界中にあるそうな。現代だって川が氾濫して
  苦しむということは自然の災害として無くならないのだから当然というば当然だわね、
  と。

  バビロニアの神話では人間が神様に従順じゃないから神々の身勝手でそんなこと
  してしもたということになっておるらしいですが、聖書ではもちろん人間が悪いことば
  っかり考えて傷つけあい罪をおかしてばかりいるのに心を痛めて、その状況を止め
  る為におこされたのだと。
  

  
  
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ラーゲルクビィスト著 「バラバ」
 ついに申芝居の初日があきました。かといって駆けつけて行けるわけでなし、怖かった
 くらくらした、なんて伺いつつどーも身の置き場がないような気持ちになるのでございま
 す。さあ、さてさて。

                                     

 毎日のように日に何度も配達にやってくるねこ便のお兄さんは、ねこ便のお兄さんで
 ありながら詩人なんです。少ししごとにゆとりがあると、荷物を届けたあとで詩や短歌
 のはなしとか小説や美術のはなしとかして帰ってゆきます。お兄さんは長い旅のあと
 尊敬する詩人の方にに会いに行き、詩を書こうと思うなら働きなさいと言われてねこ
 便のお兄さんになったそうです。そういう青年もいるんだなぁと思って感心しておりま
 す。毎日いっぱい汗を流して働き、まじめで熱のあるそのお兄さんのことを心のなか
 で応援しておるのでございます。

 物知りのそのお兄さんに何かキリスト教文学というものを読みたいんだけど、と相談し
 て教えてもらったのがスウェーデン文学の巨匠ペール・ラーゲルクヴィストなる作家
 でした。ノーベル賞作家だそうで。どんな時代の人?と思いましたら芥川龍之介より1
 つお兄さんで1974年まで存命だったようです。赤い岩波の文庫は絶版にはなってい
 ないのですが今は手に入らなくて、いたく黄ばんだ古本で読みました。書かれたのは1
 950年。その黄ばんだ本、あのね、とってもおもしろかったんです。
 
 この小説をいもとに1962年にアメリカとイタリアの合作映画も作られているそうで、観
 ていませんがストーリーはだいぶアレンジされてつつ本筋は守られているみたい。
                      
                    

 過越の祭り(春分の後の満月)に総督はイエスを放免にしようとして民衆に死刑囚のバ
 ラバかイエスかの選択を民衆に迫りました。祭祀長たちにそそのかされた民衆はバラ
 バの釈放とイエスの処刑を要求し、そして総督は不本意ながらそれに従いました。
 
 そのいきさつは福音書に書かれていることで、小説ではともかく磔にされた彼のかわり
 に放免になった盗賊のバラバはわけがわからなかったけれどなぜか“あの男”の磔刑
 の様子や長い断末魔を何幾時間も見ていたというふうに始まります。なぜ罪もない男
 が十字架に掛けられ、極悪人の俺が釈放されたのか・・・。そのことによって何も信じず
 誰も愛さないバラバはどうなっていくのか。

 そこで急に神に祈るようになったりは決してしません。信じることが正解だというふうにも
 言っていませんし、なかなか信じることができないということこそが読み手を惹きつける
 のだと思います。盲目的に信じるということは宗教の本質ではないでしょうから。罪や信
 仰という宗教にとっての永遠の壮大なテーマを孕みつつ、ごく普通の信じるなどというこ
 とからほど遠い主体の側に身を置きながら読むことができます。

 表面的なことではなくてその教えが持っている文化は体温のある信仰に触れなければわ
 かりにくいことなのかもしれませんが、世界宗教といわれるほどの宗教はどれもどこかで
 本質を同じくしているように感じます。人間が真剣に考えてきたこと故でしょうか。疑いや
 迷い、信じること、死を恐れること、寛容さ、罪。もうすこしキリスト教の知識があれば深く
 読むことができたのではないかと思いますが、バラバの心の旅は自分から遠いもののよ
 うには感じませんでした。 
 
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キリスト教入門 2
       

 舞台には関係しないけどキリスト教の基礎知識を得るチャンスかもしれない
 と思うということは前に書きました。なので、思いつくままに何冊か積読中です。

 超初心者はまず阿刀田高さんの「旧約聖書を知っていますか」から始めて
 「新約聖書を知っていますか」を読み、信仰の無いものの立場から書い下さっ
 ている阿刀田さんに感謝感謝。で、次は信仰のある立場から初心者向けに
 書いて下さっている三浦綾子さんの「旧約聖書入門」「新約聖書入門」にとり
 かかったところです。しかしいつ何時挫折するかわからないという感じ。

 超初心者に理解できることはほんの少しですし、宗教というものは身に馴染ん
 でこそその智慧や慈愛の恩恵がわかるという性質のものなんだろうなぁという
 ようなことを漠然と感じています。
 わけがわからないままではありますが、キリスト教を題材にした絵画とかは
 観易くなって親しみが持てるようになるんじゃないかというところはとりあえず
 のご利益か(笑)。あと「聖☆おにいさん」によけい笑えるようになるのは確実 
 そう。

 しかし日本人に馴染みが深いように思っている仏教というのもめちゃくちゃ複雑
 なことになっていて、結論からいえば同じ仏教どうしでも180度違うことを言って
 いたりしますね。
 仏典も編纂者や翻訳者によってすごーく違うものになったり魅力的に見えたり
 しているんだと思いますが、もとのヒンズー教的なものが表に出たり、それが伝
 わる途中の中国の道教がまざったり、日本の習俗が混ざったりして誰にもこれ
 こそ正解ということを言って統一するなんてことはできません。

 それと同じことが人間を介し、教団という組織を介し、キリスト教にもたぶんある
 んじゃないかという素人考えに至るわけです。 
 で、この前の申の「輪廻」の発想というものも仏教といえばそうでもありますが、
 仏教が始まる前のヒンズー教だったり現実社会の一般認識として歴然とあって、
 それを乗り越えようとして仏教という思想が起こったというふうに言うこともできる
 んじゃないかと思っています。
 日本で身近に言うと密教的な感じのものが仏教以前に近いかなというのは勝
 手な素人認識ですが。
 
 なんでそういうことを思いついたかというと、今回の「終末論」というのもキリスト
 教以前の発想なんじゃないかと(大きな勘違いかもしれません)。
 思想や哲学なんて関係なくてもあるがままにそういう発想を人が持つというのは
 自然だという土壌がイスラエル人、ユダヤ人にあるんじゃないかしらんと。
 インド人が「輪廻」をあってあたりまえの自明のものと思っていたみたいに。
 
 しかし、一神教というのはどうも裁いたり罰したり厳しいもんなんじゃないの?っ
 て感じがします、聖書だけ見ると。
 物語りだけ読むと神さまはえこひいきしてるようにも思えるし、信じないものには
 冷淡っていうのもどーもアジアの島国に住むワタシには異文化って気が。
 遠藤周作さんの思索っていうのもおそらくそのへんの感情によるものなのかなと。
 どれもこれも感じたままのわが思いつきを恥ずかしげもなくことばに変えておこ
 うと思います。アホ丸出しですが、ずっとあとで、もしかしたらちゃんとまちがいを
 直したり、まったくの認識不足を反省したりできる時がくるかもしれなせんので。
 もし駄文におつきあい下さった方があれば、そこんとこ許してやって下さいませ。

 舞台「狭き門より入れ」の記事を読むと、以下のような言葉が出てきます

 “ある時世界はリセットされて選別された人だけが新しい世界に行けるというもの。
  直面する人間の善悪に迫ろうとする”

 “終末の向こうにある新世界のために生きる男と、今ある世界に賭けようとする男。
  神に愛されようとする男と世界(臨人)を愛そうとする男。”

 言葉のうえではオウムのことを思い出さないでもありませんが、舞台作品のなか
 ではともかくその2人の男はハンチョウとアンディーってことで(笑)。
 すっかり迷子になってしまっているワタシの読書とは関係ないところで少しづつ
 舞台の日が近づいて、まったくこのうえなくたのしみだったらないのでございます。
 
 
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アンドレ・ジッド著 「狭き門」

どんどん読んだ記憶が遠ざかっていきそう
  なので
 、
少し。やはり明治時代の小説を読んでいるような感触
  があり、それがどれほどの意味や価値があるのことなのかは
  その時代やその時代までの流れを知らなくちゃあわからないよ
  うな気がします。

  アンドレ・ジットという人はパリに生まれ、法学部教授だった父
  を11歳の時に失っています。母や伯母や母の家庭教師であっ
  た女性によって育てられ、清教徒的な雰囲気の中で病的に憶
  病な少年として育ちました。

 (
 清教徒・・清潔、潔白などを表すPurityに由来。
  プロテスタントの中のグループ)
 
 
その少年を目覚めさせたのは2つ年上のいとこのマドレーヌ。
  マドレーヌが自分の母親の不義によって悲しみを抱いた時、彼
  女を守ることこそが自分の義務だと感じたジッドはそのまま少
  年期を過ぎ、22歳のときマドレーヌに求婚して拒絶されます。

  清教徒的な克己主義でそこまでの期間を過ぎてきたジッドは、
  純潔を保って神に従うことが却って想像をたくましくさせ、心の
  平静を奪うことに悩みます。そして、キリスト教と決別する決心
  をしアフリカ旅行へと旅立って行きます。

  若い時代の精神的葛藤の経緯とともに作品を書きつづけ、26
    歳で母を失った時についにマドレーヌとの結婚を果たします。
  しかし、ジッドの死後に公開された「秘められた日記」によれば
  ジッドの盛んな性欲や同性愛的な趣味、それらに対する知識
  の無さ。またマドレーヌのような清純な女性には肉体的な欲望
  は無いものと思い、互いは愛し合いながらも互いの体を所有す
  ることがないという不自然な結婚生活に終始したのです。

  長々とジッドの経歴を書いてきたのは、ジッド自身がこの「狭き
  門」は「小説/ロマン」ではなく「物語/レシ」と呼んでいることもあ
  り、主人公のジェロームとアリサはまぎれもなくジッドとマドレー
  ヌであるからです。

  物語では2人は結婚することはありません。信仰をともにしな
  がらも恋の成就を願うジェロームと、人は幸福のために作られ
  ているのではないという理由で、激しくジェロームを思慕しなが
  らも手を伸ばせばすぐに遂げることのできる恋を捨てるアリサ。

  今時の凡様な感覚で読めば、宗教の歓喜に酔うでもなく、自己
  犠牲の快感さえも感じようとせず、当てもなく自分に鞭打つアリ
  サの清教徒的な克己主義は悲劇としか思えません。そしてやは
  りジッド自身もそれを悲劇ととらえているのだと思います。

  アリサのよな何も求めないが故の悩みがもし迷いだとしても、何
  時の時代にもアリサような方向を持った真摯さというものは、おそ
  らく形を変えてどこかに必ずあるもののように感じられもするのです。

  ジッドは人間性の自由を探求し続けたと言われます。ジッドの絶
  え間ない思索と実験の厳しい道程のうえにあって「狭き門」は、道
  半ばに立てた道標。また自分の実際の姿を隠しては書くことので
  きなかった、漏れ出してしまった作品ということなのではないかと
  感じました。

  

     “力を尽くして狭き門より入れ”  ルカ伝第13章24節
  
 
  

  

  

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キリスト教入門
 威張ることじゃあないが、まずカソリックとプロテスタントさえ
はっきり区別できないのだ。
そりゃあ、南妙法蓮華経と南無阿弥陀仏を区別できない以上に
やばいのじゃあなかろうか。
仏教経典でも誰が語ったか、誰が訳したか、どんな文化に育まれたか
どのような意図で編集されたかによって内容が全く違ってくるように
きっとキリスト教でもそういうことがあるに違いない。
またそれのどこを重んじるか、どこに価値を見出すか、どんな時代をくぐりぬけて
来たかによって教えそのもの理解は180度違うものになるのだろう。

しかし、世界宗教たるもの侮れない実力があるのは自明のことで、
多少の基礎知識、周辺文化を知ることができればいいなと。
それは「ダビィンチコード」を読む時だけじゃなくても、いろんな映画を観る
時にもなかなか有益なのじゃなかろうかとはかねてから思っていたのだ。
正直なところ、誰かさんの舞台を観るまでの時間つぶしをたのしむ為
という邪な理由がいちばんなのだけど、それもまたよし。
そんなことと舞台の内容は何の関係も無いのだけど、それもまたよい
ではないかと。

ど素人が知るに、とりあえず新約聖書というものは
.ぅ┘垢寮験兇どんなものだったのかを書いた4つの福音(良い知らせ)の書
弟子たちの伝道の記録(使徒言行録)
手紙 (主にパウロやその弟子が教会や信徒への伝道のために書いた)
によって出来ているらしい。

そのなかのマタイ福音書の第7章第13節に出てくるのが
「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。」
 
これまた自慢にもならないけれど大抵の有名な小説というものを
読んだことがないわけで、フランスのノーベル文学賞受賞者
アンドレ・ジッドの「狭き門」をまず。
はじめちょっと読みにくいのは、やはり少し昔のものということ
だろうか、ジッドは明治2年の生まれというから漱石先生より2つ年下、
はあ、そういう時代のことなのね、と。

(つづく)



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