先日、エンゼルスの大谷翔平選手が1918年ベーブ・ルース(当時レッドソックス)以来、104年ぶりの2桁勝利&2桁本塁打という偉業を成し遂げました。
翌日の新聞に大谷選手に対する一問一答の記事が載っていました。更なる目標を問われた時、
「1番はなるべく健康で、よい状態で最後まで試合ができること。あまり先を見すぎてもしょうがないので、ちゃんと寝て、いい明日を迎えられるように頑張りたいと思います。」
と、答えていました。ごくごく当たり前の言葉だけど胸に響きました。
ワタシ自身はこのしごとの忙しい時期にからだがヘトヘトになっていました。加えて何時も以上にに社会や時代の移り変わりを実感する時期で、それに対するフラストレーションもあったからです。
年齢的に現実的な疲れやフラストレーションを消化するちからが落ちているように感じます。
でも、出来ることをきちんとする以外に方法は無いし、新しい考えや工夫もそこからしか生まれない。
先ずは、なるべく良い状態で明日のしごとをするしか無いと思わされました。きちんと意識してそれしか無いと思っていることが自分を支えると感じました。
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深く勉強するのは億劫なので、簡単に流れがわかればそれでいいというなりふりかまわない読書となっています。ふふ。吾妻鏡は北条家側からの視点で編纂された鎌倉時代の歴史書。つまり北条に都合の悪いことははしょられているらしく。源氏には手厳しく、北条の活躍は強調されているということらしいです。まあ、そんなことも含めて内容をさらりと。
頼家の弟の実朝の首をめぐる葉室麟さんの時代小説も。
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三谷幸喜さんの映画はうっとおしいとか、ちょっと鼻につくなんて悪口を言いながら、以前の「新選組」の大河の時もすっかりはまってたのしく1年視聴しました。やはりたのしませるのが文句なしにうまいなぁと。
今年は鎌倉時代が題材ですが、ぜひこれを機に鎌倉に親しみたいと思っています。中世ってとっつきにくくないですか? そう、そう思いながら、以前の平清盛の大河の時は挫折してしまったのでした。
んで、ちょうど時代も重なるので運慶のことも知りたいと思ったのですが、そこはそれアニメみたいにとりあえずざっくり知るには小説がよいのでは?というので小説で読みました。
うんうん!! 読んだ後で大河にもちらっと運慶が登場したので、これからももしかしたら出てくるかも(キャストが相島一之さんでしたしてね)。出るにしてもしないにしても、運慶は鎌倉幕府をとっかかりにして大きくなった仏師といってもいいようです。
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観たのは春だったでしょうか。高野文子さんがかかわっておられることもうれしく。「平家物語」というものがかもす気配には惹かれつつきちんと読むということはずっとできていなくて。アニメのあとに本も入手しましたが、やはりちゃんと向き合うことが出来ないままです。
とりあえずは、大河ドラマ視聴の助走としても観てよかったと思います。
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読んでいての、こまかい気がかりについてはもう忘れてしまいました。今の社会がよりきびしくてつらく、過去の社会はそうではなかったのかどうかは、わからない気がします。結婚していれば経済的に安定しやすいのかどうかもわからないけれど、じぶんの現実については確かにそうだと思います。ひとりよりも確実に子供も育てやすい。
29歳の独身で非正規雇用の女性が、友人から収入のために卵子の提供を誘われます。そこから国内では認められていない代理母出産をすすめられることになり、、、。
もし生きていくことがどうしようもなく困難だったとしたら、ワタシ自身は代理母出産を選択しようと考えるのではないかと思いました。そのことが「子宮の搾取」だとしても。経済的な格差もそれとして、妊娠出産できる性としての女性は社会の中でどう置くのがいいのか?
]]>少し前、亡くなった舅の妹さんが亡くなりました。正しくは何という関係になるのかなぁ。お姉さんと呼んでいたので、お姉さんが亡くなって、4人兄弟だった舅の兄弟は誰もいなくなってしまわれたことになります。
時間の経過というのは清々しく平等。格別なことが無いと仮定すると、ワタシと弟が消滅するまでに、あと30年ほどか? ごく短くしとくと云われても困るけど、呆れるほど長くはなりませんように。
ともかく、亡くなったお姉さんは死に顔も別嬪のままでした。で、49日の法事もあったのですが、何せ格別に暑いわけで。
黒い夏羽織の下に、無理矢理柄の訪問着を着て誤魔化しました。他の無地の薄物は水色とピンクしかないのです。水色はともかく、ピンクは着る機会が一生無いかも。
帯まで黒ではちょっとなので、これまた手描きの松の紬で誤魔化し。誰も見てないよね。というわけで。まあ、帯なんてだいたいほんのちょっとしか見えてないもんね。
この訪問着の柄はあまり大きくはなく。なんとなく滝かなと思い込んでいたのですが、何でしょう? オークションで買った新古品なのでした。
前から読んでみたいなぁと思っていて、やっとメルカリで買いました。著者のデビュー作だそうで、著者は1965年生まれ。すばる文学賞だから新人賞。著者はずーっとずーっと作家になりたくて、書いておられた最中にコロナで何日も意識が無かったそうで、そのことも作品に影響を与えたそう。
「きっちり死ぬ人間」という言葉を著者はインタビューでつかっておられましたが、恐々ながら誰もそうなりたいと思っているはずで。悲壮感をかもしたりしなくても誰も必ず死ぬし、できれば見送る人の死もできるだけ穏やかなものにしたいなぁと思っている。うんうん。そうそう。
主人公のカケイさんと自分はぜんぜん違うけど、自分が老いぼれたとき、そういう感覚ですか? そうかも知れないなぁ。いいカッコして死ねるとは思ってないけど、こんな感じよと話してもらったような。ふーむ。
著者がホームヘルパーを経てケースワーカーをなさっていると知って作品の手触りにとても納得したのでした。若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」をちょっと思い出したけど、年齢的にもそういう状況に関心が高まる気がします。軽いものではなかったけどすごく悲しいつらいというのとは違っていて、だけど読んでいて涙が出ました。
読んでよかったな。友達に「読んでみない?」と押し付けました。
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我がやどの 君松の木に 降る雪の
行きには行かじ 待にし待たむ
〜作者未詳 『万葉集』 巻6-1041 雑歌
わたしの庭の、「君を待つという松」の木に
降る雪 のように、
「行き(迎え)」には行かないでおきましょう。
ただひたすらお越しになるのを待ちましょう。
雪と行き、松と待つが掛詞なのかなぁ。松雪草(スノードロップ)のことを俳句に詠もうとして思いをめぐらしているうちに「待つ」を思い出しました。松雪草も松と待のどちらの字も使われていて、色は白くて花弁のふちが緑色。春らしい黄色やピンクなどの色とはまったく無縁。
「クラウディアからの手紙」で使われていた歌です。シベリアの抑留を解かれても帰国が認められなかった弥三郎さん。弥三郎さんと一緒に暮らしていたクラウディアさん。ひたすら弥三郎さんを待っていた久子さん。三人の物語でした。
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年末から観に行きたいと思っていたけど、10日の夜にやっと行けました。昼には行きにくいので、横川シネマの夜の8時40分からの回。丁度その日「ドライブ・マイ・カー」のゴールデングローブ賞の外国語映画賞を取ったという報道がしきりにされていて、次の日の昼に同じ監督の最新作だから混み合うなんて目には遭いたくなかったし。で、久々の観客ふたりぼっちの夜になりました。豪華なことだねえ。
オムニバスなので「映画観たぞ!」みたいな感じではなくて、超プロの料理が大きなお皿に、ほんの少しづつ供されるレストランのような。そういううれしさ。親友から恋に落ちそうな相手の男性のことを打ち明けられるモデルや、就職内定が取り消しになったことの怒りを教授に向ける大学生、同窓会の翌日にすれ違った相手が何十年も会いたかった人だった、、など。そのそれぞれの材料はだれしも必ず持っていて。それが完成した形、感情を揺らされてしまう料理に仕上げられているという心地よさと、ゆらゆらとした後味。
「ドライブ・マイ・カー」の劇中にも出てきたように、本読みに感情を込めてはいけない「濱口メソッド」と呼ばれるルールが現実にあるというのを聞きました。その中で、現場で、登場人物の中に何かが起こり、そこが観ているものを惹きつける。ということか。台詞の無い時間にも感情が絡み合っていて。
演劇的という言葉に定義があるかどうかわからないけれど、もし、言葉にはならない関係とその変化を表現すというようなことであったとしたら、濱口監督作品の演劇的なところに捉えられてしまうのだと感じます。
濱口メソッドについてに西島さんのコメント 「ずっと本読みをしているので、全員の台詞が頭の中に完全に記憶されるんです。でも本番になったときに、相手が初めて感情を込めてその台詞を言うと、突然、目の前に生きている人がばーっと現れたような感じがして、毎シーン感動するんですよね。不思議な感覚です。もちろん相手は知っている人なんですけど、初めて見る面を見せつけられるような感じがして。何気なく見えるシーンでも、非常に演じている側は感動するという、初めての体験でした。個人的なキャリアとしては、全くいままでとは違う演技になっていたのかなと思います」
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今日も日中は暑かった。気温が高いので金木製が咲くのが遅くなっているそうです。長束夫人と院展に。夫人のお花の先生が会場に活けておられる花を拝見するのが一応の目的。
その前に初めてのヴィーガンのカフェで待ち合わせて、昼ごはん。古い喫茶店か何かを模様替えして使っているらしくて広々。
何でも食べ過ぎてしまうので、丁度苦しくならずにあんばい良くて気に入りました。彼女は何かのハンバーグみたいなの、ワタシは車麩のフライにしたので、ひとつずつ取り替えっこ。
ちょっと喋りながらごはんとコーヒーを一緒して、絵と花を見てさらりと分かれる。2時間。今のワタシには丁度いい具合で、ありがたい時間。
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道路掃除夫のペッポさんがぽつりぽつりとモモに話しています。とても長くてやりきれないと思う道路を受け持った時、せかせかどんどん働きまくるのは、息が切れて動けなくなってしまうからダメなんだと。
「いちどに道路全部のことを考えてはいかん。わかるかな? 次の一歩にことだけ、次のひと呼吸のことだけ、次のひと掃きのことだけ考えるんだ。いつもただ次のことだけをな。」
すると楽しくなっきて、たのしくなれば仕事はうまくはかどる。そういう風にやらなきゃダメで、ひょっと気づいたら一歩一歩進んできた道が自分でもわからないうちに終わるのだ、と。
この頃、明日明後日、その次、とつづいていく予定が気重に感じられています。しごとがあるのは有難いことだし、恵まれていると思うのとは別のこととして。
そうだな。次のこと、次のこと、と、ひとつづつやることにしましょ。
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ほんの少しだけ、日々何を感じたとか、どんなものを見聞きしたとか、書いておけば気分が軽くなる気がすると思いながら書かずにいます。そんなものノートに書けばいいような気もするけど、此処も長年の使いかけのノートだしね。とか(これはおめでたい人の言い訳)。おしゃべりさんなので見境なく誰とでも喋るのだけれど、それとこれとは別のことみたいです。体力とか気力とか、もっと上手く使えないものだろうかなぁ。
大河ドラマは今年は挫折しないで観ています。慶喜を演じている草薙くんいいな、と思っています。慶喜のことを今以上に知らなかった時も、なんだか新しい人なんだろうな、変わった人かも、などというイメージを持っていました。やはりずいぶん秀でたところのある人だったらしい。だけれどやっぱり随分ヘンな人なわけね。とかとか。
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今日しか行く日が無いぞ! と張り切って行ってきました。上映時間が3時間近くあるので。行って良かったです。原作を読んだことあるなと思いだしたのは作品がだいぶ進んだ頃で、どうアレンジされているのかまでは覚えていません。ハハハ。
最初はね、赤いサーブに乗って、選ばれた人しか出来ない文化的な職業で、どうよ? と思ったのですが、引き込まれていきました。外国で撮影するつもりがコロナの影響で広島撮影となったのだそうで、ロケーションが知った景色ばかりだったのもひとつたのしかったのですが、それでなくとも引き込まれたと思います。
主人公は俳優で演出家なので、「ゴドーを待ちながら」と「ワーニャ叔父さん」が物語に重ねられています。沢山の量の台詞を耳にしたり、稽古場のシーンがあります。演劇の中で立ち上がってくる何か。魔法がかかったように生き生きと現れるシーンの楽しさなどにも触れていました。
大崎下島には行ったことはないのですが、瀬戸内の景色はやはり独特で素敵だなぁ。あとね、ちょうどこの夏、映画にも出てくるゴミ処理場に行ったのですが、建物も見晴らしも広い水辺の緑地もとても気持ちがよいのです。もっと涼しくなったらまた行ってみようなぁ。
作品の受け止めは整理されませんが、伝わってきた心象はそのまま心の何処かに何時までも残りそうな気がします。
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鳩サブレーの豊島屋さんです。きざはしとは階段のこと。「きざ(刻)」と「はし(橋)」の意を重ねたものだそうで、離れたところを渡す段を表すのだそう。
鎌倉は、起伏に富んだ地形で階段が多い町。鎌倉幕府三代将軍の源実朝が武士としてはじめて右大臣に就任した時、それを祝って参拝した鶴岡八幡宮。その折に刺殺されたのも雪の石段でのことだそうです。
何処かから何処かをつなぐ「きざはし」。餅粉と蜀黍粉の細長い餅に焦黄粉。上品であきないお味です。
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憂いがあるときほど、憂いに取りつかれた時ほど、分かちたい。それなのに分かつことが出来ないと思えてしまうのですが、そこはそれ、自分で面倒見てやって軽くしてやらなきゃ。そう思えないのが取りつかれている状態なんだよなぁ。何がたのしいのか、どうすれば気が散るのかさえわからなくなってしまいます。ね。
TVで「82年生まれ、キム・ジヨン」をやっていたので観ました。うーむ。そういうのは女性の妄想だということを云われる時、ワタシはどうも確かな説明が出来ないのがダメだなぁと何時も思う。映画の原作は小説だそうですが、作品としてとても優れているかどうかということよりもこういうかたちとして在ることがいいなと思ったのでした。
しかし、ことの本質とは別にハイカラな暮らしぶりだなとも感じ。女の敵は女になったりしないように自分の中の無意識を確認しておいた方が良さそうです。
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人が植物に取り込まれていく。植物たちは葉をのばし蕾をつけ花を咲かせ、またのびて茂ってゆく。この暑い生育期にお似合いの小説かもしれません。いっそ植物になってしまった方がよいのではないか。。さて、今日もせっせと水やりです。
]]>アガーで牛乳ゼリーを作るのは毎年のことですが、ネットで見かけた青と白の混ざったのをやってみたくなりました。
青はバタフライピーという豆茶。青色のお茶を固めて作り、格別の味はしません。牛乳とは少し食感にちがいができます。
おやつは、誰かに食べさせようと思えばこそ作るもののような気がするなぁ。
咲き始めの初日から勢いのいい雨に散々打たれた蓮は今が盛り。花は咲いたら散って、秋になれば葉も枯れると知っているけれど、自分の年齢の移り変わりはたぶんなってしまわなければ腹に落ちてこないものだろうなと。果たして落ちるのか? と云うのも100分de名著でボーボワールの「老い」について観ているから。あとは、一緒に住んでいるママの加齢について日々実感しているのもあるけど。
上野千鶴子さんが解説なので、より興味をひかれ中。テキストまで買いこんだけれどまだ読んでいません。どうやらテキストはテレビより詳しく書かれているもよう。もとの本まで読む意欲はいまのところは無し。気持ちにとまったのは、以前の自分とは違うという自分の中のせめぎ合いは、自分を差別している自己差別であると云っていました。ふーむ。
男女の違いについてのなかで「老婆は。。すでに女性であるというだけでうさんくさいのであるが。。つねに不吉な存在」だと。「仮に老婆がよいことを行う場合には彼女は本当は妖精であったという種明かしがつく」のだと。日本でも老婆といえば「黒塚」のような人食いの鬼女のイメージでまがまがしいしなぁ。
女は若さに価値があるとされたからだとボーヴォワールは云っていて、多くは男より長く生きなければならないし。執筆当時はフランスの寿命は男68、女75だそうですが、うらやましい気がします。放送の続きがたのしみ。
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クリスティアン・ベッツォルト監督。まずその名前を覚えるのは無理そう。初めに観たのは「東ベルリンから来た女」で、一昨年くらいに観たのは「未来を乗り換えた男」。キャストは「未来・・」と同じでパウラ・ベーアとフランツ・ロゴフスキ。こちらの名前も覚えられそうにもないけど、二枚目でもないのにロゴフスキさんは何故か好きなんだよなぁ(「希望の灯り」にも出てましたね、うんうん)。
今回は水の精“ウンディーネ”を題材にした物語だけれど、そのことが好ましいというわけでもなく。何だろう、この監督の色とか、無意識に聞いているけど音楽とか、物語の中で立ち上がる場面の気配とか、、ドイツフランス合作が醸しているものだろうか? くわしい中身は覚えていなくても何処かのシーンが記憶に残っている感じ。
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グー・シャオガン監督の長編デビュー作なのだそう。前に横川シネマで予告を観ていたのでどうしても観たくて出かけました。うつくしい四季を下敷きにしてうつりゆく中国の社会のなかを生きる大家族のそれぞれを描いていました。
何が起ころうとも季節はめぐるということの強さ。音を聴きながら景色を眺めていること自体がすこぶる心地よいのでした。いやはや生きていることは切ない。
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観たらやさぐれた気分になるんじゃなかろうか?と思いながら出かけたけれど、そうでもありませんでした。格差社会が云々もありつつ旅のおはなし。拝金主義一辺倒みたいな暮らしは違うのじゃないかというきもちは誰の中にもおそらくあり、一緒に旅をする気分で案外のんきに観たのでした。人生賛歌と云うべきか。
ま、ワタシはペーパードライバーだし、物理的には到底遊牧民にはなれそうもないけども。
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例年より20日ほども早く梅雨入りしたのにはびっくりしました。早く始まったからといって早く終わるというものでは無いそうで、長い梅雨になりそうです。写真の木は沢胡桃という木だそうで花序が垂れて緑がうつくしいですね。胡桃といっても食べられるわけではないそうです。
この前「小説8050」の記事のとき、「馬鹿にされたとか軽んじられたに人はしみじみ弱いものだと思う。カッコ悪いけど案外だめだめなんだよなぁ。世の中の個人的な問題のほとんどがそれ問題なのじゃなかろうか?」と自分で書いて、自分でどこかしらひっかかっていました。
今日、古新聞の、土井善晴さんが家庭料理のはなしをされたのを読みました。一部なので正確に受け止められているかわからないのですが、“ ひとりで家庭料理を作るというのはある意味では苦しいことで、食べる人がちょっとだけ料理した人を気にかけたり手伝ったりしたら救われる ”と。たしかにそうですねー。
「どんな仕事でも、みなのことを思い頑張っていても、してあたりまえと受け取られると、自分の存在が否定されたような気になる。」と。(2020,11,22朝日、折々のことば) そんなこと気にしなくても自分が頑張っているんだから否定されたなんて思わないで堂々としておけばよさそうなものですが、そうもいかないのでしょう。
「馬鹿にされたとか軽んじられた」と同じことなんでしょうねー、「存在が否定されたような気になる」ことは。それでワタシの結論は何なのだろう? 料理のことに困っているわけじゃなくて、、。えーと、たぶん、出来たらそのへんのこと、あんまり気にしないで堂々としとくことにしたいね!ってことかな。
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先月、ともだちののぶちゃんがパーキンソン病だということがわかりました。それについて何と云ったところでワタシは本人じゃないのです。誰もこれからいろんな病気になったりからだの困難を抱えることは必定だけれど、今日のところはワタシはどーってことなく暮らしているわけで。のぶちゃんにすごく親切になんてできないけど、時々一緒に歩いたり出掛けたりしようねとはなしをしました。なるべく心を軽くして、たのしいことをしようね、と。というわけで、サキさんとのぶちゃんと3人で美術館まで歩きました。
真っ直ぐに努力しなくちゃダメだよ!とは云わないアーノルド・ローベルの世界は心地よくて。ダメなところもそのままに、ゆったりのんびりしあわせであればよいのだ。できるだけ。
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あさイチの林真理子さん出演の宣伝効果につられて単行本をポチ。その大問題を林さんがどんなふうに小説に仕上げているのかなぁと思って読みました。小説はやはり希望を持たせて終わりたい。そのために作品の中の親子の設定年齢を若くしましたと番組の中で話しておられました。
小説の中の親子は5020。歯科医師の両親の長男は医師を目指していたが、引き籠りの年月は7年。実際の8050からすればほんとうに若い。人生にとって時間って何だろうか?
7年前にいじめられたことについて裁判できるかどうか。勝ち負けではなくいじめられたそのことに対峙して乗り越えられるかどうか。きっちりエンターテイメントになっていてぐんぐん読めます。一晩で読了。
誰もが思うことだろうけど、じぶんのこどもが引き籠りにならなかったのは別段親がよかったわけではない。まわりにも引き籠ったり再出発したりする例を実際何件か見たし、そうならなかったことは運が良かった。運が良かったで済ませていいわけでは無いだろうけど。
深刻な引き籠りでなくて、社会の中でただの普通の人、弱い人、ぱっとしない人として相対化されることが怖いとか直面したくないということはよくあるように思う。それは逃げているからいけないことととらえることなのか、プライドが高すぎるよということなのか、そこは本人しか決められないかも。
引き籠りとは離れて自分に問えば、自尊心や自己肯定力はやわらかいままでいるのはむずかしい。馬鹿にされたとか軽んじられたに人はしみじみ弱いものだと思う。カッコ悪いけど案外だめだめなんだよなぁ。世の中の個人的な問題のほとんどがそれ問題なのじゃなかろうか? これから年を重ねてうまく弱者になれるのかなぁ。じぶんが拘泥しているあれとこれも結局はそのことの問題だと思うのでした。
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前に一度頂いたことがあって、メモしておかなきゃと思いながら忘れていたちっちゃいクッキーのちっちゃい缶。前に食べたときもとって美味しくて。入っているクッキーの味は7つ。アマンドエフィレ、アマンドアシェ、レーズン、ラングドシャ、ロシェムラング、フルーツ、ショコラ。クッキーの吹き寄せといったところ。
同じタイプの缶(径は13センチほど)に入ったちっちゃパイの方も食べてみたいなーと思っていましたが、そっちはまだお会いしないままです。オリーブ、ガーリック、コンブ、エビ、チーズ、ゴマ の6つのお味だそうですが、ワインやビールを1杯だけなんて時にもたぶん丁度いいだろうなぁ。
同居の家族が少ないのがこの頃は普通で、クッキー缶を開けるのは躊躇われます。でもこれならひとりでも美味しいうちに食べきることが出来ますし、お洒落な缶なのも、ちょっとしたプレゼントにうれしい!!
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親戚の結婚披露宴。結婚式は去年の9月に済ませていて、コロナのことで披露宴は今に。今の時期も披露宴やパーティーは止めておくという人も多いのでしょうが、どうしようかと思案の結論だったのでしょう。
クリアなパーテイションにひとりひとり広く区切られたテーブルも、座っていればそれなりに慣れるものですねー。でもまあ、隣の方とお喋りするのも身を乗り出さないと。
今日のように、新郎新婦も含め沢山の若い方を見るとじぶんの年齢を感じます。まだ年寄りとまではいかないけど、いささかの通じなさそうな重さとか、鬱陶しさを与えそうな引け目とかなのかな。
これから先もっともっと続いていくことですから、ただそのままの歳で、意識せず、おおらかにその場所にいるようになりたいものです。
前に着たのはこの着物じゃ無かったんだな、とじぶんの過去記事で今わかりました。んじゃ、比翼に自分で取り組んだのは今回が初めてかも。留袖の着付けのポイントを確認するのにやはりYouTube が助かりました。
還暦近くなって、色留袖も黒留袖も持たせてくれた親にあらためて有り難いと思ったことです。
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鈴カステラを頂きました。何てこと無いと云えば、何てこと無い鈴カステラです。ふんわりと嫌味のない甘さで、きっと赤ちゃんからお年寄りまで誰でも食べることのできる鈴カステラ。格別めずらしく無くても、そういうことがうれしく感じるようになりました。お腹の調子が良くない人や食欲の無い人にも、もしかしたらひとつつまんで食べてもらえるかもしれないな、と思います。
明月菓寮とは耳にしたことないなと思いましたら、長岡京小倉山荘さんさんのあられ以外の和菓子の扱いをそのように区別なさっているらしく。今は品切れになっていましたが、この鈴カステラはAmazonでも扱かわれているみたい。チョコ味もあり、ネットでも買えるようです。
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2月がだいぶん過ぎてしまいました。
そのためにこれといってすることは無いのだけれど、ムスメが家を出て行くまでの時間を待っているような。
ワタシはワタシのしごとをしながら、何もしないでのんびりしているエアポケットのようなムスメの時間に合わせているような。
コロナが収束するまでの待ち時間とか、ムスメが出て行くまでとか、仮のことのように云っても、本当は今は今であるはずで。
今日に、今日のしあわせをしつらえて過ごそうね。
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オークションサイトのお写真をお借りしてきました。しばらく前に骨董屋さんの出品で見かけた蓮弁。何のためのモノなのか、何に使うのか? 記事を残しておかなかったので忘れたのですが、ずいぶん古い、江戸より前のもののようなことが書かれていました。実際はどうでも、コレクターではないので関係なく、もしも買えたら買いたいなぁと思ったのでした。
はじめは4000円ほどだったか、目の利く方はまだ様子をみておられただけなのでしょう。4,5日で10万を越えて縁のないものになりました。まあ、所有しなくても、好きだなぁと思うものに会えただけでもたのしく。写真だけ頂いておいたので、ここに貼っておこう。
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ワタシはその人に片思いしていたことに、わりあい長く拘っているらしい。
触れてみたいという好奇心や、言葉を交わすたのしさは捨てがたかったけれど、じぶんだけが求めているとわかる。その単純なことの苦さは、ワタシの一部になったらしい。
時折その人のことを思い、じぶんのなかで声をかける。こんなことを思ったとか、こんな言葉に出会ったとか、どんな気分でいますか?とか、そんなふう。それを時折書いておこうと思う。
話す相手をその人に置いてみる。その人がいてもいなくても何かを読んだり、書き留めたりしておくことは、関係ないようでもあるけれど、如何だろうか。
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伊東比呂美さんは55年生まれだそう。ワタシより7つ上ということになり、同じジェネレーションとも云えると思う。すべてではないにしても長く何十年もあちこちで彼女の文を読んできて、いよいよ人生黄昏時まで来たぞ!の感。
前作の「閉経記」は読んでいないけれど、本書のあとがきによれば、その頃、50代、
「エストロゲンが激減しつつあった時期、人生の見方がとてもクリアになり、やっと本来のわたしが出てきたと思った。楽しかった。」「死んでいく親を見送るのも、娘が家から離れるのを見送るのも、充実していた。」と。
本書はその後について。うんと年上だった夫が老いて弱ったのを世話し、見送り、その後の彼女の見た景色について書かれている。
「肩、膝、腰は凍りつき、なくす探すをくり返す。もんもんと考え、るると書く。犬どもを従え荒れ地を歩く。料理なんかする気もなかった――男が一人、老いて死んでいくのを看取るのは、ほんとうによかった。」
は、本の紹介文。
読者のワタシ自身には今は夫がいて、すぐには死にそうにない年齢で、ワタシ自身もまあ、まだ時間に余裕があるような気がしていて。更年期の時期の方が今よりも荒野をゆく気分だったのだけれど、見える景色はそれぞれに違い無い。だんだんに爽快過ぎる風に吹かれることは確かだと思う。
どんな景色が見えようとも、年上の女たちにつづいて、ワタシはワタシで、暮らしをやってゆくしかないのだろうなぁ。
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土曜日に高速バスに乗り叔父の法事に出かけた。灰色の無地に羽織。黒の道行き。市内はチラチラしても白くなっていなかったけれど、バスが走るにつれて雪に包まれた。コロナのせいで小人数となり、周囲は凍てていて、あたたかく、さみしい集いとなった。法事を修するというのは大人の所業だと改めて思う。
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12月半ば、最終上映を観てトレに寄って帰還。監督はネットフリックスの「全裸監督」の脚本・監督もつとめた内田英治監督。オリジナル脚本。ストーリーだけなら別段のことはないようなのに、とてもいい映画だったと思う。
悲しいとは「哀しい」とか「愛しい」とか「美しい」とも書くというけれど、まさしく「美しい」と書く悲しさだと身に沁みた。孤独なんか、本当の孤独なんか、ワタシは知らないんだな。まったく草?くんにやられた。
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3日の午後にムスコ殿も京都に戻り、しごと場の玄関も閉めて、お正月営業終了。例年通りおせち、お雑煮、煮込みハンバーグ、すき焼きなど。ごはんのお正月営業も終了。例年通りステーキ肉は持って帰らせる。来年はムスメの方がもういないお正月になるはず。少しはさみしいかもしれないけれど肩の荷も軽くなる。
年末からの営業を終えてだらだら。ムスメに借りて「A子さんの恋人」を読む。7巻で終わりだったのだが、6巻で終わりと勘違いしてしまい、読み手の情緒はこんなところで放り出されてしまうのかーー!!と気持ちが漂う羽目に。あと1冊あってホッとしたというめずらしい経験。少し切なく着地した。
年末年始はすごい寒気と予報していたけれど、さほどもなく過ぎたように思う。
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まる一年帰省していなかったムスコ殿が30日に帰ってきた。しごと場の玄関は開けっ放しにしてあるので、静かななりにも営業しつつ何時もどうりの大晦日と新年の始まり。家族の食事はママのことも考えて一応9時解散。めずらしく1日に年賀状を出す。
]]>26土曜日 I氏家族が久しぶりに揃っておいでになる。ジュニアは3人揃って爽やかな青年に。遠くから帰ってくれば、むさしのうどん、お好み焼き、夜は牡蠣を食べ、明日は宮島で穴子飯にするとのこと。なるほどー。
27日曜日 ともちゃんが結婚のお願いに来てくれた。よい日。池田さんにおいしいポップコーンを貰って、池田さんと一緒にコーヒーを飲んだ。よい日。
人はこんなふうに子供を送り出し、老いていくのだなと思う。まだほんの鳥羽口だけれど。
今年亡くなったノムさんの映像が流れていて、誰も時代と年齢には逆らえないんだと云っていた。
28月曜日 お正月のお花を。明るく陽当たりのよい部屋でみんなで時間を過ごせてしあわせな日。ママのところに千田町より来客。久しぶりに階段を上がったり下がったりが忙しく。
夜に今年最後の映画に行く。「燃える女の肖像」 18世紀フランスのはなし。
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19土曜日 急にママに注射をする看護婦さんが来て下さる。あらら。
20日曜日 みちこさんと一汁で忘年ランチ。ルームシューズとスノードームを買う。M1を観るつもりがすっかり眠ってしまう。
21月曜日 愛子さんが来てくれて一緒に外掃除。ポークソテーをして昼ごはんも一緒に。
22火曜日 急に忙しい日になる。夕方ひろちゃんちに白菜漬けをもらいに。
23水曜日 夜ごはんのあとしっかり眠ってしまい、夜中に「ぼけますから、よろしくお願いします」を初めから終わりまで読む。
24木曜日 パンに牡蠣のオイル漬け、コロッケなど。うろうろして台所から出れず。夜にフラワーアレンジに。帰りにみやさんとバスク。
25金曜日 ママの薬を取りに。ワンピースコートを直しに出す。やはり直し代が高いが、乗りかかった船だ仕方ない。
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月曜日 昼過ぎのいっときだけ、小春のようでした。100メートル道路を歩く。あまりにぽかぽかなので川土手の刈ってある草の上に寝転んだら背中が草まみれ。風は感じなかったけど、雲は流れていた。
]]>古着で持っている袋帯を引っ張りだしてみた。
水曜日 この前の餃子の種は作り過ぎで沢山余り、今日の焼売の種は足りないくらいだった。餃子の種には野菜を膨大入れるせいだな。そのへん、認識しよう。笑 焼売は手間が少ないのに喜ばれるので、今度からもっとしばしば作ることにしよう。ふと亡くなった義父さんも焼売が好きだったなぁと思ったら、ダンナも親父を思い出したと云った。
木曜日 昨夜は倒れ込みように10時過ぎには寝室に。よく眠り、よく動ける日はうれしい。WiFiのルーターを新しいものに取り換える。壁紙の残りを廊下に貼る。
金曜日 しごと、お花のお稽古、句会。客観的には遊ぶのが忙しいだけなのだが、本人は必死。笑
土曜日 しごと、みちこさんと香月でお蕎麦、散髪。
日曜日 しごと、ムスメとむさしで元気うどんの予定がキハチのパスタ。むさしはテイクアウトのみ。むさしの冷凍うどんは買って帰る。キハチもテーブルが減してあり、満席にならないようにしてあり。ブランドのショップなど人数制限があるらしく列が出来ていた。
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金曜日 ムスメがブックオフで買ってきた能町みね子さんの「結婚の奴」をメルカリで売るというので、売れるまでに読むことに。相撲解説などTVで彼女のことも見慣れていて、戸籍上の男性から性適合手術を受けて女性にといういきさつももう忘れていたくらい。セクシャリティーや恋愛についてはともかく、結婚であってもなくても誰かと暮らす方が快適なのではないかということについてはしばしば実感を持ってつよく思うわけで。行き詰れば解消すればいいのだし、その勇気があれば、望めばかなうんじゃないかと思う。逆に一緒に暮らさないの選択も。戸籍上の結婚、子育てを伴う結婚の場合も、思いやれれば、こうでなければならないことはないと思う。人は人に悩むけど、喜びも人にあると思う。ま、云うほど簡単じゃないかもしれないけども。
土曜日 日曜日
月曜日 ムスメと2人、3日間夜な夜なやって、リビングの壁紙張り替え終了。欲ばって部分ごと、白、ライトブルー、青、スモーキーブルーの4種で。紙だけで見たら1番不安だったスモーキーブルーが良かった。うれしー!疲れたー!
火曜日 みのむし会 今回は初釜に二重太鼓にしたいという人の希望に合わせる。今回はワタシも、着物を着る。ワタシは基本場所を貸すだけと言って始めたけど、やはり楽しい。次回は3月に。夜更かし癖がついてマサコさんが貸してくれた吉田修一の中から「ひなた」を読了。
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大阪からのお土産に頂いた デ・カステロ・カステ のカステリーヤ。可愛らしさも勿論だけれど、おいしさも大満足!! きれいにカットしてあるのもやはり便利。そんな機会があればお祝いの配りものにもよいなぁ。
金曜日 清会で幟町に新蕎麦を食べに行く。かえりにハルミさんとボジョレーを飲んで話を聞く。人のことは、こころのなかで簡単に片づけてしまうものだと思う。素直にしっかり聞くように心がけよう。じぶんを被害者にしないようにしようねと言い合って別れる。
土曜日 日曜日
月曜日 みちこさんとうちで昼ごはん。午後袋町に自転車のパンクを直しに行く。お金があるときにタイヤとブレーキパッドとチェーンも交換して下さいとのこと。1万7.8千円かかるそうだ。もう何年乗ってるんだろうか?
火曜日 オータム倶楽部 友達のお下がりのジャケット、コート、ブラウススーツをみんなが試着してみる。どれも上等だったので捨てるのは惜しく、喜んで着てくれる人がいること、人とのつながりそのものがうれしいんだなぁと改めて思う。
水曜日 久しぶりにムスメとごはんに行く。マスターが云うにはその店の売り上げは上がっているくらいとのこと。みんなあまり梯子しなくなって、滞在時間が長い分支払額も多くなっていると。平日だし空いていたけど、ワタシたちも食事もお酒もそこで済ませて直帰。あまり沢山は飲めなくなっているので丁度いいし、行きつけお店は大切にしておきたいのでよかった。
木曜日 しごとと句会が重なっててんてこまい。しのげる体力気力がありがたい。
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えらくノロノロと高村薫さんの「新・リヤ王」を読んでいます。まだぶ厚い前後編の前編半ばあたり。青森に基盤をもつ一族の長、通産大臣などの大臣経験のある田中派の古老の政治家福澤栄が、自身の息子の禅僧=彰久と延々と対話しながら物語が進んでいくという仕立てになっています。
禅僧である彰久の、仏門であるがゆえの心情も長く語られていきますが、自分なりにでも禅のおしえや座禅をどうとらえたらいいのかわからないままなのは塩梅悪いなぁと感じていました。そこに丁度、雑誌のクロワッサンの中のコーナーで仏教学者の石井清純さんと曹洞宗僧侶の藤田一照さんが対談しておられて、ありがたかったのでした。
失礼してちょこっと抜き書き。(クロワッサン11/25号)
「禅宗は“すべての存在は仏である”という徹底的な現実肯定のおしえ。(p74)
現実に対して不満を抱いているがゆえに何かを探し求め、そのために手足口頭をじたばた動かしている。その4つの機能を封じてしまうのが封じ手てしまうのが座ること。「凡夫を封印した状態=仏が開封された状態」。
仏は拝む対象ではなく、あらゆる存在と自分が一体になった「あるがままの存在」。自と他の境界も名前もなくなり、言葉では表現できないもの。
我々はいつも今ではない「いつか」ここではない「どこか」を求めていて今起きている素晴らしいことを逃し続けている。過去をひきずらず、未来を恐れず。この瞬間の自分を感じ続けるのが座禅。走るのを止めると求め無くても「今」が向こうからやってくる。当たり前に起きていること、空気や音や光をしっかり受け止め、感謝し、喜ぶことが大事。
「調身・調息・調心」・・大地、空気とつながる。縁起・・すべてのものは必ず周りからの影響があり、与えてもいる。(p76)
座禅は瞑想とは違い、頭に何か浮かんだらすぐに手放す。大きな川を見てゐるイメージ。同じ形だけれど常に新しい水がとめどもなく流れていて、何か流れてきてもつかまえてはいけない。
座禅にも場にちからが働き、信頼する人がそばにいるというだけで滋養をうけとっている。
本当に安定している状態とは、物事の変化に対応し続けること。「諸行無常」を実践に置くと、初めてのつもりで現実と向き合うこと。「今、ここにあること」の実践。(p77)
それで禅がどこに行きつくのかは実践も求道も無いワタシにはわからないけれど、手放し、過去をひきずらない未来を恐れないはとっても肝心に思えますし、今のしあわせを感じることができる自分でいたいなぁと思うのでした。
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ワタシの実家のハハはがんばりやさんで、前向きな人なのですが、それだけにちょっと弟のつれあいと折り合いがよくありません。事情もあるのでその辺は弟もつれあいも、ちょっと気持ちのよい声掛けとか上手にしてくれさえしたら解決するのになぁと、小姑は常々思っているんですけどねぇ。
そのへんのハハの愚痴はあんまり聞きたくないのですが、仕方なく聞いた上で、ワタシもともだちのあつこちゃんにそのことをたまに愚痴る。(笑) ということをもう長年やっております。
あつこちゃんが、「よかったら実家のおかあさんに差し上げて頂戴!」と云ってくれたのがこの本。まあね、読んだら何とかなるなら自主的に何とかなりそうなものですが、背中を押されたり、慰められたりといったことはあるかもしれませんねー。
中村さんは、戦後の混乱期から88歳までフルタイムで6日働いておられた精神科医の方だそうです。雑誌でも拝見したことがあります。今は90になられたでしょうが、きもちのよい女性と感じ、敬意も感じたことです。
つまりはあまり求めない、自己肯定はじぶんでする、人とは適当な距離で付き合い、あんまり無理してじぶんに負担をかけないように、というあたりのことが書いてあります。お医者さんというおしごとがあるからそんなことが云えるんだという風には思いません。格別なことは書いてないし、ごく普通だからこそ「うんうん」と思いました。
何の覚悟と云えばいいのかなぁ。ワタシはワタシ。という覚悟が肝心なのでしょう。みんな、しあわせに暮らそうね。ハハに送る荷物の中に入れておきましょう。
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もう何時行ったのかも忘れてしまった。上映最後の日の前日だったので予約して、ジャズファンで満席。ワタシはど素人なのでジャズの帝王と云われるマイルス・デイヴィスがどんな人なのかはじめて知りました。
苦しそうではあるけれど逞しく熱量も高く、やはり天才なんだろうと思った。しかしそれでも女の人を殴ったりひどく僻んだり、弱いし。ちょっとだけプリンスとかスライも出てきた。スペインやインドの音楽エレクトリックやクロスオーバ、ファンクロック。すごく様々な音楽性。
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月曜日 午後から出掛けて、帰りにプロフーズで穴子を買う。天麩羅にして蕎麦と食べる予定。
火曜日 天むすを作る。夜に沢山溜めていたアイロンかけをする。シャツなどきれいに畳んでビニール袋に入れ、クリーニング屋のように仕上がって楽しかった。
水曜日 昼からカラーリングに行く。前にもしてくれたロングヘアで3人の子供がいるきれいなお姉さんに染めて貰う。帰りにメゾンド・ラブレでケーキをふたつ。夜ごはんのあとすっかり眠り込んでしまい、朝まで本を読むはめに。
木曜日 おでんを作る。午後ナカネさんがいらして、抹茶をたてて一緒に一服した。ムスメはペットショップで小さい水槽と小物を買ってきた。彼女のこのところの主たる活動は水槽の世話。
]]>大概週末はしごとの予定があるのに、明日はドタキャンで無しに。PCR検査を受けなければならなくなったからとの由。
ムスメをワタシの実家に行かせるように段取りやら準備やらしていたけど、実家にいる弟のまわりに何か事件が起こったらしくそれも無しに。
どちらも全くたいしたことではないけれど、何だか宙ぶらりんな気分。
大袈裟に言えば何時何が起こるかわからないということだなぁ。
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予約しておいた本が届いて、一気に読み終えました。野田さんはネットでのお名前はカリーナさんで、長くblogを読ませてもらっています。ネットマガジンも。
彼女の人生における一大事とそれからの怒涛の日々、何よりこころの葛藤や眺めた景色がどんどん迫ってこちらのきもちを揺さぶります。ぐらんぐらん。今、揺さぶられてぐったりきているところ。
うざい電話で彼女を襲撃して怒涛の日々の話も聞かせてもらっていましたし、本のもとになった新聞連載記事も読みましたが、やはり、それでも、ぐらんぐらんしています。
うざい電話の襲撃は間違っていたんだと思っていますが、それはそれとして。本書は軽やかで、真剣で、洞察深く。果敢で、平明で、赤裸々で、コミカルで、勇気が湧きます。しあわせにはなるには勇気がいるからね!
しかし、簡単に勇気が湧くなどと云うのは少し違う気もして。当事者以外には経験者以外にはどんな言葉も引っ張り出す資格がないように思え。誠実な大人であろうとすれば自分以外の人が苦しい時、敬意以外の何をもって処すことができるのだろうかなぁ。黙ってきもちを置くことしか出来ないのだろう。たぶん。
カリーナさんにいっぱいしあわせがありますように。
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アクアリウムの中に羊の親子を入れてみました。
しばらく前に無性にマンガが読みたくなり「ミステリーと言う勿れ」を7冊買いました。それなりにたのしく。その中にマルクス・アウレリウスの『自省録』が出てくるので、それをとりあえずNHKの100分で名著のテキストで読みました。岸見一郎さんが解説だったので以前放映もたのしく見ていたので、テキストもたのしく。本でも買いましたがそれは寝かせたまま。
岸見一郎さんの本が何か出ていたら読もうかなと「老いる勇気」と「老後に備えない生き方」を。題名はちょっと恥ずかしいけどなぁ。ふふ。中によく出てくるのは三木清とマルクス・アウレリウス。岸見さんの本の土壌になっているアルフレッド・アドラーは自己啓発の源流と云われ個人心理学は都合がよい考え方という批判もおそらくあるのだろうけれど、今のところはとてもきもちに馴染む。
目下その二冊を少しずつ読みながら、眠くなったら灯りを消す。安けく眠れるほどしあわせなことはないなぁ。
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さんざし。何か実のある枝ものが欲しいですと花屋さんにお願いしたら、山査子が来ました。これで4本。1本が350円くらい。実を固めたものをドライフルーツとしては食べたことはありますが、お花としてはあまり認識していませんでした。枝がまっすぐで洒落た感じにはならないけれど、秋の華やかさ。
バラ科、江戸時代に中国から薬用として小石川薬園に持ち込まれたそう。山査子の花は春の季語。実はこんなに鮮やかなのに秋の季語にはなっていないみたい。
山の日が山査子の実にみづうみに 雨村敏子
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水曜日の夜から雨が降って、一斉に金木犀が散りました。
木曜日に句会をしたので、前日の水曜の朝にコウジさんに電話をしました。「もし気が向けば、1カ月の区切りに1句でも電話でいいから投句してね 」と話しました。
コウジさんは9月は2週間ほど入院していて、その後やっと自転車で通院できるくらいに回復していました。「わかったー。思い浮かんだら電話するー。」と云い、「んじゃ、病院行ってくるわー。 」と云い、しんどいなりに明るい声を聞かせてくれたのでした。
訃報は彼の義理のお姉さんから金曜日の朝に聞きました。つれあいとも別れていて家族が傍にいないことを勝手に何時も心配していたけれど、亡くなる時には娘さんがついていてくれたということも聞きました。
どういうふうをともだちというのかわからないけど、兎に角月に1度は句会で会おうね、とこれまで言ってきました。以前彼は居酒屋をやっていたこと。魚をさばくのも上手なこと。ロマンチストで空の写真を撮るのが好きだったこと。公園に将棋仲間がいたこと。病気のせいでしっかり眠ることができなくて夜がつらかったこと。気をつかいすぎるほど細やかだったこと。もちろんダメなところもいっぱいあったと思うけど。
コロナのことも含めて、お別れのありようとか、人との距離とか、解決は無いなりにこころにかかっていましたけれどもそのこともそのまま。コウジさんともお別れするすべも思いつかないままです。葬儀には出会えないけれど、みんなで分かち合ったり、きもちに受け入れていく何かが欲しいように思います。
別れるといってもワタシも他の人も彼を忘れないし、時折彼のことを思ったり話したりするのでしょう。これから先、金木犀が終わる頃にはコウジさんのことを思うのでしょう。
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高齢になってきたママのことを何時も見ていると、軽んじているとは思わせたくないということを感じています。軽んじているつもりではなくてもどこかで簡単に済ませようとしていないか? 無理のない範囲で、優しいきもちで、誠実に接しているか?
つまりはじぶんが謙虚であるべきで、人が自分に対して失礼であってもそれは仕方が無いこと。またそのことは、じぶんで認識出来ていなかったかもしれないけど、じぶんってうっとおしいやつだったな、勘違いしていたからこうなったのかもなと気づくべきなんだよなぁ。気がづいたからといって次は上手くやったり、ちょうどいいところが見つけられる自信はないんだけども。
幾つになっても失敗するし、年齢がこうなったからこそ勘違いしやすかったり、力技をつかってしまったり、鈍感だったりもするしなぁ。
ボトルツリーをゲットした勢いで、陽当たりの悪い台所で生息できそうな緑を入手してみました。外の洗濯物が映っちゃってるぞ。(笑) 育て方の紙というものはかならずそのうちに無くしてしまうので、ちょいとここに書いとこ。ウラボシ科。シダの仲間。
カーテン越しの日陰。5℃から10℃は保つこと。湿度が好きだから葉水をして、土が乾いたらたっぷり。受け皿に水を溜めない。寒い時は土が乾いてから2,3日経ってから水を。肥料は要らないが、春から秋にはやってもよい。2、3年に一度、根が詰まったら暖かい時期に植え替える。水苔やバークチップを使う。
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そんなこんなでその方がアレンジなさった曲が演奏されるヴァイオリンの演奏会の招待券をいただきました。これまた素人が聴いても素晴らしかったです。受け取り能力が足りないので何て言えばいいのかわかんないけど、うわぁと思いましたもん! 席はコロナの感染に対応して1つとばしで、回収していただくほうのチケットの半券に名前と電話番号を書き、満席になっていました。木曜日のことです。
1つとばしでは収益も半分なのでしょうから大変なことだと思いますが、久々の観客席は殊の外うれしいものでした。演劇も音楽もはやくもっとたのしめるようになって欲しいと切に願います。
コスプレで大島の単を来て行きました。紺とこげ茶が細かい縦横。色々持たなくてもこれだけでさえいいんじゃないかという気分の着物で。自分の思うきれいさとか、着るものとしての重み、カジュアルさ、とかそういう意味ですが。客観的にはどうなんかな? イメージの中でそうだったんですが、着てみてのしっくり具合はもうひとつでした。
あと、超絶いいかげんであわただしいワタシの着付けはもう少し几帳面にした方がきもちいいぞ思ったこと。あとは、洋服でなくても着物もからだがスッキリしている方がいいなと。(笑) それからやはり着慣れること。 後で他の帯も試しにのっけてみました。
どうすればしっくりくるのがまた試してみましょ。と、思います。
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市販のずんだあんの賞味期限が切れそうだったので、ずんだあんぱんを作りました。こんなことを出来るのは、時間とからだときもちの元気に余裕がある日。過ごしやすくなったし、とてもうれしいこと。
午前中はよくTVをつけっぱなしにしていて、見てはいないんだけど何となく聞いています。Eテレのデザインの番組がついていて、落合陽一さんが話しておられました。じっと見ているわけでないのではなしの筋はわからなかったのですが、「質量」のはなしをしておられるのが耳に留まりました。
検索して「質量」を語っていらっしゃる記事を読んでみましたが、もうひとつ理解が届かなくて。今日のところはメモをピンナップしておしまい。
「質量への憧憬の目指す先は祈りだ.
祈りは実行と形を持たないソフトウェアアップデートだ.
精神のチューニングと出力の連続活動かもしれない」・・・展覧会「質量への憧憬」
「質量に保存する,制約を与える,有限の存在にする.」・・・落合陽一note
このリアルな世界は、すべて質量でできているわけですね。
「ある程度、質量でできていると感じていますね。ただ、その質量性はだんだん現実世界から失われていくと思っています。例えば、インスタで撮った写真の方が綺麗に見えることってありますよね、いわゆるインスタ映え。それって、僕らが認識する現実の世界から物の質量が減っているってことだと体感的に感じています。今の我々の認識する世界にとっての物質って何だろう、質量ってなんだろう。そういうことについて最近は考えている。」・・VOGUEの記事
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ジャズにも皆目明るくないので、ただ気持ちよく音に浸りたくて行ってきました。58年にリゾート地のニューポートで開かれたジャズフェスティバルを当時の気鋭の写真家が記録したものを4Kのデジタル技術で再生したとかなんとか。
大御所のセロニアス・モンクのピアノも、ロックスター チャック・ベリーもルイ・アームストロングのトランペットも猫に小判ですけれど、きもちよければよし!
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神慈秀明会という宗教団体が設立した MIHOミュージーアム(http://www.miho.or.jp/)は展示もロケーションもすばらしいそうなので一度行ってみたいと思っていますが、その館長の熊倉功夫さんという方は時々テレビでもお見かけしますね。民俗学や文化史がご専門のようです。
その熊倉さんのおはなしによると、近代以前の「世間」は身内の「ウチ」と他人の「ソト」の中間にあって、見知った関係をさすと。掟を破れば村八分だが、「世間様に恥ずかしくないように」という自己規制がマナーだとしつけられ、共同体の秩序を守った。そこから地縁や血縁は切り捨てられて、好き勝手に移動できるようになり、人を結びつけたのは利害。その延長がグローバリゼーションと情報化社会。なるほど。
熊倉さんによれば(茶道の本なども書いておられる)日本のマナーは「間」が肝だそうで、能も茶道も緊張感のある充実した時間的空間的に「間をとる」ことで美を育んだと。うんうん、それは納得。
人と人の距離。モノゴトと人の距離。はひとりひとりがデザインできるものだ。というのが記事の締めくくりだけれど、洗練されたものになるにはずいぶん時間がかかるような気もするのであーる。どうなんかな。
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以前は鶏頭とカーネーションは苦手と思っていましたが、この頃はそうでもなくなりました。
新聞の記事の中で谷川俊太郎さんの「ともだち」という詩の一部が取り上げられていました。「ともだちって かぜがうつっても 平気だって いってくれるひと」。オフィスなどで席が固定されている時には近くの人がひどく咳をしたら気になるでしょう。それほどでもない時には、風邪がうつらないようにもっと用心しようと考えるくらいがこれまでのワタシたちであったように思います。からだが丈夫でおおざっぱなわたしのようなものは猶更。
コロナが終息したらどうなのかなぁ。今まで以上に風邪やインフルエンザがうつることに敏感になるのかもしれません。近代に持ち込まれた「個人」の概念が人の咳を不快に思わせるのでしょう。ワタシたちが住んでいるのは一蓮托生の村社会ではないのだから。どうしようもなくじぶんと他者との境界はハッキリして、じぶんを守ろうとするのは責めることではないはずなのですが。今以上に他者のたばこの煙や騒音や咳に過敏な社会は窮屈なんじゃないかな。
事情はくわしくわかりませんが、母親の家に来てもらっていたホームヘルパーさんが母親にコロナウイルスをうつして死に至ったとして訴えたというニュースをやっていました。何千万かの金額が請求されているようでした。ワタシのようなおおざっぱはもっと予防の努力を払わなけれないけないと思いますが、人は「人のいのちはいつか終わるものなのだ」ということも、もっと知るべきのようにも感じます。
一緒に暮らしているママの部屋の入り口に除菌の装置があって、はじめそれを見た時、正直ムッとする気持ちになりました。今はもう大丈夫ですけれど。遠くに暮らす義妹がママを心配して送ってきてくれたものです。高齢のママにもしコロナウイルスが届けば大変なことになるでしょうし風邪もひかない方がよい。ワタシたちは、不安の感じ方は人によって違うものだとコロナのおかげでよく知りました。
でもなー、ママを思って毎日ごはん作り、雑用もゴミ出しも万事を預かる人との境界は高くならないのかな。もしワタシが買って設置したのならばそうは思わないはずなので、買ってもらって助かったーというのがたぶん現実的正解です。日に何度もその除菌装置のボタンをポチしながらそんなことを考えるのでした。
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フランソワ・オゾン監督作品本作はフランス版「スポットライト」(トムマッカーシー監督)とも云われる。
神父による信者家庭の少年たちへの性的暴力。長年の行いにより、声をあげた被害者だけでも80人以上という「ブレナ事件」を扱っていました。この作品は2019年の銀熊賞を受賞したということも知らず、そのような事件に対してあのオゾン監督がどんなふうにアプローチしているのか見届けたいというきもちで観ました。しばらく前のことです。
昨日、日曜日の夕方の報道番組をつけていたら、日本のキリスト教系の施設に育った子供に対する神父の性暴力を告発した人のことを丁度取り上げていました。テレビで拝見した方は64歳で、同じように自分も同じ神父から被害を受けたという別の人もインタビューにこたえておられました。
受けた傷は長い年月が経っても忘れることができるものではないと改めて知ります。映画の方もそうですが、日本でもそれに対する教会の反応は薄く、進展していないそうです。教会によらず組織とは事なかれ主義を常とするものですが、権力に対してせめて知るべきは知り、意見を持たないと。女性の性被害についても声をあげようという流れがやっと今来ているように感じています。
映画作品の切り口は最初に告発をしたアレクサンドルと、彼の訴えをきっかけに自身の記憶と向き合うことになったフランソワと、エマニュエル。全く異なった人生を送っている三人にそれぞれ軸を移しながら、家族環境や人生にどう影響しているかを細やかに描いていました。裁判によって生まれる軋轢や家族との問題、同じ被害者どうしでも捉え方、アプローチの方法など連帯していくことの難しさも。
何時もはミステリアスで幻惑的?なオゾン色は封印され、社会を刺激する実録作品になっていました。そのうえキャストがすばらしく。映画を観ての帰り道、もし日本の役者をあてるとしたら誰にするかで盛り上がってくらいです。
アレクサンドル・・メルヴィル・プーボー(わたしはロランス)
フランソア・・ドゥニ・メノーシェ
エマニュエル・・スワン・アルロー
三人ともが主演・助演で受賞しているのも納得。
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