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カフェ オウザン の ラスク
                              


やたらに可愛いらしいスティックのラスク到来。やっと検索してみましたら、秋田県の有名な古民家Cafeで売っているもののようです。HPによれば、そのモダンな建物は「 正岡子規の弟子であった俳人、河東碧梧桐を中心に文化人が逗留し句会を行う 」 といったものだったよう。

ラスクのお味はさほど印象には残りませんでしたが、やはり魅力は可愛いらしさかと。箱を開けたとき、みんながわーっとなる可愛らしさというものはお菓子というものの魅力のいろいろの中で、ポイント高し!! どうやら定番のものはクロワッサンの形をそのまま残したデコレーションやフレーバーのもののようです。

お江戸のデパートには売り場があるそうです。 ■ カフェ オウザン HP


碧梧桐のお名前は知っているものの、ちょいと基礎知識を仕入れてみれば。

碧梧桐と虚子は「子規門下の双璧」。子規の死後はと守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立。新傾向俳句から、定型や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句誌にすすんでいった。ふんふん。

子規は、碧梧桐と虚子について、「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。なるほど。

               碧梧桐の代表句

               赤い椿白い椿と落ちにけり

               ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く

               曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ

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映画 グラン・トリノ テーマ曲
   


古雑誌をパラパラしていたら、高橋幸宏さんがおすすめしている曲のなかのひとつが映画 『グラン・トリノ』 のテーマ曲でした。2009年のクリント・イーストウッドの出演監督作品です。

あれこれの解説などを読めば。かつてのアメリカを築いてきた自動車産業とその落日。ポーランド移民である主人公の意固地な老人とアジア系移民のかかわり。朝鮮戦争とアメリカの魂。そんなしち面倒臭いことを知らずとも、ともかくいい映画。

テーマ曲を歌っているのはジェイミー・カラム。 音楽の知識も無いのですが、カラムにはまったのは昨年のことです。でもたぶん、この曲はアルバムには入っていないと思います。なので、耳にしっかりとした覚えがありません。

埋め込みは不可なのですが、映画のなかでは最初のワンコーラスを直接イースト・ウッドが歌っていてしびれます。映画の音楽全体を担当しているのはイースト・ウッドの息子でベーシストのカイル・イーストウッド。イースト・ウッド自身もジャズプレイヤーなので、作中のピアノなども結構弾いているのだとか。

( この歌の録音などについてのカイル・イーストウッドのインタビュー記事はこちら。 )

映画のためのオリジナルであるこの曲の作曲はイーストウッド、カラムに加え、カイル・イーストウッドとそのパートナーであるマイケル・スティーブンスら、四人が共同で担当。作詞はカラムだそう。


イースト・ウッドの役者としての最終作品ですが、おそらく名作としていつまでも残っていく作品ですよね。おそらくテーマ曲も一緒に。 ■ 映画公式  ■ 予告編動画


[ 音楽のじかん ] comments(2) / trackbacks(0)
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映画 『 愛の渦 』
(ネタバレしています)      

                                        公 式

えーと、流石のワタクシでさえも映画館に行くのをいくらか臆した作品です。臆したせいもあってかどうか時間の都合も合わず、しばらく前にやっとDVD視聴しました。

とはいえ、脚本・監督は 「劇団 ポツドール」の三浦大輔氏。脚本は既に過去に舞台上演されていて、な・な・なんと岸田國士戯曲賞までとっています。なので無意味にエロいなんて代物ではないことはわかっていました。ポツドールなんてハイカラなものは地方では観れませんからその意味でも興味を惹かれていたのでした。

さあて、内容は。ただただセックスがしたくて乱交パーティーに参加する男女たちの群像劇です。やたらの裸体やら。そういうとっつきの悪さを完全に補完するのがキャスティングで、店長・田中哲司 店員・窪塚洋介。参加する男女は10人ですが、そのうち有名どころは新井浩文、滝藤賢一。メインは旬と思われる「ニート役」の池松壮亮クンと、チョコラBBのCMに出ていたと言われればそんな気がする「性欲が強過ぎる女子大生役」の門脇麦ちゃん。

まあ、映画云々の前にまずあるのはセックスて何?ということかもしれません。スポーツのように清々しくなく、否応なく後ろ暗いニュアンスで。自分でも知らない動物としての自分を解放するおまつりかもしれないし。きちんと分かち合うかどうかはともかく、分かち合う相手が必要だという根源的な設定条件。隠されているけれどもそのことが機能している社会性もありつつ、社会がコミットできない世界でもある。はなから分裂しているものではないのか?

役に名前は無くて、保育士・サラリーマン・ニート・OLといった具合です。そうよね、名前なんぞいらなくて、職業だってもっといらない世界でございましょう。でね、どんなふうにそれは行われるのやら。それもちょい面白かったですよ、下世話ですけども。参加費は男子2万円で、女子は千円。カップルなら5千円という設定も。

夜の12時から5時までのパーティーなのですけれど、ぎこちない会話から始まって、途中からの中傷とか嫉妬とか。皆がお金を払って自分の欲望に降参して参加しているはずなのに、冒頭のぎこちなさは自意識や日常から踏み出せない状況なわけで。滑稽だけれどそうしたものなのだろうねとか思い。

じりじりと人間としての女性ではないものに近づいていく男性と、妥協していく女性たちのやれやれ具合。

監督のことばを借りると。「 愛の渦は、どうやって人は動物性を隠して社会に溶け込むか という、動物性と社会性のせめぎ合いの話なんです 」。

はなから “愛あるセックス” とかいう定義をすっとばしているはずなのに、生まれてくる特定の相手への情愛だの。そこから生まれる軋轢だの。行為の中で何かしら完全に分かち合ったように思えてしまう現象だか幻想だか。

その先に何があるのか?というのは、物語として無しにはできないのかも。この映画の場合、日常に出た時、ニートの彼は動物である自分を認めることができるけれど、彼女のほうは切り離そうとします。ふんふん。

通常の恋愛ではおそらく関係を持ちたいだけの男子は一旦達成すればドライで、ひきずってしまうのは女子かなとも思うんです。関係したということにおいて。

監督はそこにパラドックスをつくったと言っていました。監督は「女性はこのひととセックスしたことが正しいと思いたいからひきずるんじゃないか?」と言っています。ワタシはそこはどうかな?と思わなくもありません。ただ、ひきずるような生理にできているんじゃないかとは思います。

監督は「性欲に従ったということを受け入れられるか受け入れられないか、ということなんです」と。あ、そうそう。常連役の女子のメンタリティー(店長と同棲している)も、夜の世界では普通に展開されているらしい?というところもちょっと着目ポイント。

ワタシはもはや、それらの種々ことについて実感する機会は失われていますが。生きている以上、人間の生理とは切り離されることはないわけで。ある意味さっぱりした、誰にも彼にもはオススメするわけにもいかない。なかなかめんどうくさくて、ダサくて。そのうえエグくて、みっともない。おもしろい映画でございました。

あなたにはオススメしておきますね。

     

[ 映画のじかん ] comments(4) / trackbacks(0)
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プレゼント
    


もろもろ用事もあったのだけど、ムスコが電話してきておしゃべりをする。それはなかなかにたのしいこと。もっとたびたびかけてくるムスメとのおしゃべりもたのしい。そのあたりはなかなかに贅沢なきぶんなのだと恥ずかしげもなく書いておこう。

こどものことでたちまちに憂うことをしないで済む。世のハハたちはそのことにどんな対価を払ってもいいと思っていると思う。払えるものなら。母性だとかそんなもののせいではなく、じぶんの為に。

うれしげだとか自慢げだとか親バカだとか、そのへんを外に置いてしまっているのはいいのかどうかだが。まあ、じぶんのことを甘やかすのは得意技なのだ。

ファンキーなバンドマンであるところのムスコだけども、おしゃべりのついでに電話の向こうでウクレレを弾いて歌を歌った。オザケンのブギーバック。なのでハハは 「あ、それ、誕生日プレゼントにもらっとくわ」と言った。誕生日のプレゼントとして、無料の家族間通話の電話の向こうで、歌ってくれたことにしておくという意味だ。

数日前のハハの誕生日におめでとうも言ってくれたのだけど、パソコンも壊れて金欠の彼からは今年は花の1本もプレゼントは送られてこないはず。

そんなふうに勝手にもらうことにしたプレゼントに、ハハはいくらか励まされて暮らすのだ。52歳を1日1日積み重ねてゆくんだ。妙にくやしいけれど、悪くない。

[ つれづれ ] comments(2) / trackbacks(0)
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広島アンデルセン カープメロンパン
        
                                      
                                        広島アンデルセン 公式

何度も見かけていたんですが、今までは買うに到らず。今日は、紅茶を買いに行ったついでになんとなーく買ってしまいました。あー、阪神と引き分けでこんなことになっているとは知りもせぬまま。どうやらカープの試合のある日だけに売っていたらしいのです。さすればシーズン終了の今日買ったのは、残念ながら大正解。

思慮のないオンナですからね、ガブっといったらツバのところのピンク色の砂糖がめっちゃこぼれまくりました。メロンパンですから、味はメロンパンですってば。メロンパンはワタシのソウルフード〜♪ なんて思い入れはありません(笑)。

ふつうのメロンパンとあんぱんはママンに押し売りしよーっと。だって、ワタシ、明日から痩せるもん!だってだって、ついこのごろ、気温が下がってからというもの1,5キロくらいも体重が増えましたとさ。だってお米がおいしいんだもん。新米に麦をちょっとまぜて栗ごはんとかむかごごはんとかとか。。。お鍋で炊いたらいくらでも食べれるんだもん。

パンを焼くのも自分用はしばし休みじゃ!  あああーっ、火曜日にはフミちゃんにパフェをご馳走してもらう約束だけど、まあそれはよし! そして、来年からのカープにまた期待しときましょ。

[ おやつの時間 ] comments(2) / trackbacks(0)
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展覧会 『戦後日本 住宅伝説』
        
         

                                                  

                                広島現代美術館   @  公 式

建築の知識などなにもありませんが、たのしかったーー。建築というのはアート以上にたのしい気がしてしまいました。だって現代アートって、自意識肥大してるっぽい印象を受けるじゃないですか。ええ、ど素人の感覚ですけども。建築にも哲学があり、かつ機能があり、人が住まいしてこそか完成するって、うきうきするなぁ。

50年代から60年代のモダン建築ってやつでしょうか。ほら、60年代生まれには親しい高度経済成長期のとんがり具合と、ハイカラさ。そうそう、こういうものに憧れて育ってきたよねーーと膝を打つと申しましょうか。

なーんもわからないんですが、劇空間を観た時。照明や音響や、演出されたモノと人が存在していることに感じるわくわくに似てるなぁ。一番下写真の家を設計された伊東豊雄さんのおはなしはここの美術館で聞いたことがありますけれど。この家をムスメさんたちが出て行く時、あまりに個人的な住宅なので他の人が住まうと言うことは考えられないとして壊されたのだそう。

長い時間在り続ける建築物ではありますが、形あるものである限りは消えてしまう日がくる。それもまた劇空間めいているかもしれません。


               

               

               

  
               
[ 美術のじかん ] comments(0) / trackbacks(0)
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寒露 ・ 雁来る ( 49候/72候 )  満月・皆既月食
             

            

                       


我が家はビルの谷間なので、さっき月を見上げに大通りまで行ってきました。月ばかりはお江戸でご覧になってるおともだちも、きのう電話をくれた仙台のおともだちも、ワタシの子供たちも、あの人もこの人も、同じものを見上げているんですね。

電話やメールやラインや、もう人と人の距離感というものはきもちしだいといいますか。便利過ぎといいますか。だからこそ遠いものは遠いといいますか。そんなふうですが。昔の人はきもちも通じない便りも届かない二度と会う手段もない人のことを、月を見上げながら想ったのでしょうね。

あーー切ないわ。


アクアリウム始めました。昨日、テトラと苔を食べてくれる海老を投入♪

[ つれづれ ] comments(3) / trackbacks(0)
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映画  「 ジゴロ ・ イン ・ ニューヨーク 」 追記
                  

ジゴロに癒されたりしても、それが買ったものに過ぎないということに却ってつらくならないのか?ということを、ぼーんやり考えていました。エステやマッサージを受けたことはありませんが、もしそれがこころが温かくなるような体験だったとして、それならつらくはならないはず。 

例えばBarに行った時、やってくるお客は礼儀正しい親密さでやさしくもてなされたいのです。そのことで、さあ、またがんばらなくちゃ。いい時間だったと思うはず。

さてさて、そんなどーでもいい思案は置いておいて。わざわざ買っておいてほっぽりだし、何処に行ったかわからなくなっていたパンフレットが出てきたので読んでみました。ジゴロとしてのフィオラヴァンテがどんな男として作品中に置かれていたかについて。

まず映画の原題は 「 Fading GIGOLO 」。衰えつつあるジゴロというほどの意味か。インタビュのタトゥーロの答えがなかなか。

「 映画の中にはいつだって理想的な左右の顔を持つ人たちが出てくるけど、現実世界には色々な人がいるからね。一度服を脱いでしまえば、いい身体をしていてもそうでなくても対等さ 」

たしかにたしかに。映画の中では繰り返しては事細かに表現はされていなかったようにも思うけれど、受けとったニュアンスは次のコメントのとおり。

「 セックス好きの男が必ず女性を好きだとは限らない。フィオラバンテは話の聞き役になることを厭わず、彼女たちを人間として扱い、とても敏感で優しい 」。

恋人との間に3Pの相手を求めた医師の役を演じたシャロン・ストーンの説明がワタシにはとってもストンときた。

「 フィオラバンテが女性に提供するのは, 彼の存在そのもの。一緒に居てくれて、自分に目を向け関わろうとし、無防備で、時間を割いてくれて、豊かな愛情を注いでくれる。 そして心までその場に寄り添わせてくれる。 (略) 彼は触れ合うすべての人たちに、そして自分自身に対しても、時にはそこに存在してあげるだけで人の心は開け放たれるということを教えてくれるわ 」

何をしてくれなくても、優しいきもちで一緒に居てくれればいい とそんなふうに切実に思ったことは、おそらく誰にでもあるのではないか。 それが異性であるほうが救われるというきもちになったことも。

フィオラバンテと未亡人は違う世界の人である。そのことは歴然としていると判断するのが大人というものだと思う。 しかし時間を共有すうことは可能だし、タトゥローが語っているように彼は彼女の世界を広げ、彼女は彼の視野を広くする。

「皆が誰か他の人と繋がりたいと望んでいる。それは生きるエネルギーだ」 「人生に壁が立ちはだかっている人もいれば、すべてを手に入れたかのようにみえて、まだ何かが足りない気がしている人もいる」 マレーとフィオラバンテのコンビがまわりのみんなに影響をあたえ、自身も巡りくる何かをつかんでゆく。

そんな巡り合わせは、捕まえられるときに捕まえなくっちゃなのだよなぁ。捕まえなかったとしたら、また違う何かが巡ってくるのかもしれないけれど。ま、フィオラバンテは映画の中の人であって、現実には調達できないのが残念ですねー。

        
            
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三砂ちづる 著 『 タッチハンガー 』
                    

先日読んだ 内田樹×三砂ちづる『身体知』 に関連して、もうちょっと読んでみようかなと古本を手にしました。本の題名になっているのは触れ合うことや抱きとめられることや背中をなでてもらうことについてです。「ふれてもらえなかった思いの連なり」を「タッチハンガー」と呼んでいます。そういえば“手当て”という言葉かありますが、そのこととも通じているように思います。

じぶんのことを考えると、日本は抱擁とキスの文化ではありませんから、そんなことをするのはダンナくらいとですね。ダンナとは意識的無意識的に失わないようにしている気がします。むぎゅっとして欲しいとか、背中を撫でて欲しいとか言える相手。しかし同時に傷つけあったり、わかりあえなさがつらく沁みる相手でもあるなぁ(笑)。

大きくなったこどもたちとも、じぶんの年齢を重ねた親のことも抱き締めることはありません。しごとでお会いする年齢の多い方のことはたま〜に抱き締めます。背中を撫でたり。無意識に親愛の情を精一杯伝えようとしているからでしょう。

「セクシャルなニーズのもっともっと前に、そっとふれられたい、しっかり抱きしめられたいという人のニーズがあるということに、なかなか気付けずにいる」のじゃないの?という問い掛けをこの本はしています。

映画の『 ジゴロ・イン・ニューヨーク 』のワンシーンで、妙にツボをつかれたのも、この本を読んだ後だったからという気もします。そういえば、不倫の一番の理由は「よいこよいこ」されたかったというのを読んだことがあるなぁ。

はたと気付いたこと。病気で亡くなったおともだちと最後に会った時。たまにしか会う機会が無いおともだちだったのですが、そのお別れの時。ワタシは人通りのある路傍で、激しい恋をしているみたいに彼女のことを抱き締めました。病を担っている彼女にじぶんのきもちを精一杯伝えたかったからです。

彼女が亡くなってしまって2度と会えないとわかってから、ワタシは彼女とそんなふうに別れたことをよかったと思っていました。漠然とそれは彼女のためにというふうにも思っていたような気がします。しかし、嗚呼、彼女を抱きしめたことで満たされたのはワタシの方だったのではないか? そのことでワタシの方こそが彼女と別れるということを受け止めることができたのではないか?

例えばこどもを抱きしめ、乳をやり、髪をといてやり、背中を流してやり。それはこどもに自己肯定するという一番大切な能力を与えることであったはず。触れるということにそんなちからがあると知らないわけでは無いのに、意識しないで過ぎていたかも。きっと介護の世界でもそれは大切なことのはず。それから、やはりじぶんももっと抱き締められたがっているというふうに自覚すればいいように思います。

メインテーマ以外の項目がほとんどなのですが、和服を着ていた時代の女性の排泄や月経などにたいする身体の能力のこと。中絶が禁じられている地域で、妊娠は遅れた月経として扱われたという文化のことなども興味深く感じました。

出産や育児のことを考え、さみしい思いでみなが生きていることを考え、駆り立てられない暮らしを考えていくと、毎日おなじことをするということの中に大切なものがあるような気がするということも書かれています。たしかにどこかで、新しいことをするのが価値があると思い、何時もこのままではいけないという気分があるということは否めません。家事は自己実現を妨げるものであって効率化すべきという考えもどこかに。

一概に言うわけにはいきませんが、暮らしというものの単調な繰り返し、毎日の平凡、それに耐える強さや価値観というものもおそらくワタシたちにちからをくれるのではないか。あらためてそんなふうにも思ったのでした。

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映画  「 ジゴロ ・ イン ・ ニューヨーク 」
                              

                                           公式

もう1週間もまえのことになりますが、映画 「イヴ・サンローラン 」を観よーぉっとと思って出かけました。そしたらね、そうそう土曜日から タイムスケジュールというものは 切り替えになるものですよねー。うっかりしていたぜ。

やっていたのはウディー・アレンが14年ぶりに自分以外の監督作品に出たとうわさの「ジゴロ・イン・ニューヨーク」。せっかく映画館まで行ったんだし、観ましたです。

ま、おとなのためのと申しましょうか、とってもたのしくて洒落た作品です。ジゴロとポン引きのおはなしです。しかしね、娼婦が世界最古の職業だとして、女性の買春の対象としての男娼ってものはどうなんだろ?とか思ってしまうんですが、そのことはまた別にしよ。

で、で、脚本と監督はこのジゴロ役のフィオラバンテを演じているジョン・タトゥロ。散髪屋でこんな映画はどうだろうとおしゃべりで盛り上がり、あとでその散髪屋にいったウディ・アレンがそのはなしを聞きつけて、やろうやろう!となったらしいですぞ。

なのでウディが、ニューヨークのブルックリンで本屋をたたみ、ポン引きになったマレーを演じております。ダブル主演ってやつでしょうか。ま、まるでウディー・アレンの作品のようでもあり。ジャズもかかってるしね。

マレーは皮膚科にかかっていて、その女性の医師(シャロン・ストーンですよ!)に女性の恋人とのあいだにはいってくれそうな男性を紹介してくれないかな?と言われます。そこで、花屋でバイトしていてうだつのあがらない友人のフィォラバンテに「女性の扱いがうまかったじゃないか」とか「君はセクシーだ」とか「絶対にもてるよ」なんてその気にさせ、またその気になってしまうという。

そこでですね、タトゥーロが嫌みのないキャラクターにしたかったと語っているフィオラバンテですが、まあ、嫌みがないというのがまさに適切で、いい男とも思えないんですが(笑)。そこのところが、この映画を嫌みが無く品のあるものにしているんでしょうね。

そしてフィオラバンテは人気者になります。それから戒律の厳しいユダヤ教のラビの未亡人(ヴァネッサ・パラディ)と互いに惹かれあうようになるという展開。

この未亡人とはじめて会った日のことが、ワタシとしては、あー来た来たという着目ポイントでございましたよ。何せ夫以外には自分の髪の毛も見せてはいけないというような厳しい戒律のなかに生きている若き未亡人でございます。

診察台のような狭いベッドによこたわった未亡人に掛けものをして、それを少しずらし、洋服の背中のファスナーを下ろして、オイルをつけた手で背中をなでる。それだけ。そこで未亡人は涙を流します。自分の人に触れて欲しさ、孤独感。癒されるといえば滑稽な気もしますが、男性の脚本なのにそこを突くのね、と。

はなしが脇に行ってしまうんですが、50代になってみてそのことは実感としてより理解できるようになったんですよねー。マッサージとかエステだとか、そんなものを欲しがる感覚といいますか。ジゴロのお世話になれば心が満たされて元気になったりもするのかもしれないのですが、かといってそれは買ったものに過ぎないということによりきもちがひんやりとはならないのか? 杞憂ってものでしょうかね。もともとの孤独感は引き受けられるからこそ大人っぽいということになるのでしょうや?

ユダヤ系の血をひくウディーのアドバイスかどうか?ですが、ブルックリンのユダヤ教社会の中で未亡人とフィオラバンテのことは問題となり。映画は結論にむかって運ばれてゆきます。タトゥーロはそこで「真のラヴストーリーにしたかった」と語っていますが、そのようでもあり、そのようでもない気がしてしまうのは観る人によるのかもしれません。

コメディーなんですから、女性からの目線でいろいろ考えるっていうのはナンセンスなんでしょうし、作品の愉しみを素直に、おかしみや切なさを味わうっていうのがいいような気がします。モダンジャズ系の洒落たラインナップのサントラもいつか買うつもりです。

         
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