冬至の夜、NHKBSのザ・カバーズを観ておりましたとさ。ダーリン田島を含む1966年生まれのミュージシャンのみなさまが出演。リリーさんのお陰なのかどうかわかりませんが、有り難い番組でございます。みーーーんなで作った最新作アニメ「おそ松くん」のエンディングテーマ曲も披露しておりましたとさ。
秋のはじめの頃に観たんだったでしょうか。ジャームッシュについても語れません。アダム・ドライバーを初めて見た時に魅力的!!と思ったけど、もうめちゃめちゃメジャー過ぎるほどのスターさんになりましたね。この映画では主人公でありながら静かな役ですが、やはり上手いです。
俳句のこともありますが、詩とはなんぞや?と思って映画館に出かけました。主人公のパターソンはニュージャージー州のパターソンに住むバスの運転手さんです。詩をつくる人です。
彼の一日は妻へのキスに始まり、バスで町を走り、しごとを終えると愛犬と散歩、バーで一杯だけビールを飲む。その日常のなかで日々詩を書き綴っています。みずみずしい言葉で日常が豊かになるとでもいいましょうか。
そうそうかつてジャームッシュのオムニバス作品(「ミステリートレイン」1989年 )に出た永瀬正敏さんも出ています。パターソンの町出身のウィリアムス・カーロス・ウィリアムズという詩人を敬愛する男として少し出てきます。そして、その男は自身を、「詩を呼吸しています」と言い、「翻訳した詩を読むことはレインコートを着てシャワーを浴びるようなものだ」と語ります。受け入れること、理解すること。
そのままに理解すること。
まあ、ワタシなどには漠然としか受け取れないのですけれど。ジャームッシュはこの作品全体が詩の構造だと言っているらしくて。日常の繰り返しとそれをつないだり、つつんだり、そこに散りばめられているものがあったり。
じぶんとは感覚は違う気がしつつも、そのイメージを忘れない作品のような気がしました。
横川であった、小さなフラメンコのライヴに行ってきました。生のギターや歌、踊りから伝わってくるものもさることながら、そこで踊るかたや観にいらしておられるそれぞれのことを何故か思いました。歌うことも踊ることもその根っこは祝祭なんだろうかなぁ。生きていることのよろこびなのかもなぁ。みっともなくても踊ろう。しんどいときも歌おう。それがいいんじゃない? かっこよければ更によし!
フラメンコや闘牛の時の ” オーレ!olé ” の掛け声。日本語にすれば 見事だ! しっかり! いいぞ! だそう。じゃあ、ワタシにもあなたにも ” オーレ! ”
一昨日、襟子ちゃんちの句会に行かせてもらいました。真面目に句作をしないので、にわか作りで済ませております。自由詠は手持ちを使い回すとして、兼題の句は何とかやっつけなくちゃなりません。
自分のやっつけ句のことを書くなどトホホですが、反省材料として書いておきましょ。
兼題が「冬座敷」だったので、先月の実家の法事のことを思い出して「 似た顔の打ち揃いたる冬座敷 」としました。
あとで先生に見て頂いたら「 似た顔の二三人居る冬座敷 」で良いのではないかと。打ち揃うとまで云うなら「 夏座敷 」の方が季語が生きるのではないか、と。
なるほどなぁ。云われればそんな気もしたり。よくはわからないし、勿論好みもあってかまわない。
季語は取り合わせでなく、季語が生きるように。それ以外の部分はあくまで平明に。と云われますが、なかなか本当には身に付いていかないです。
もしずっと細々とでも句をつづけていけば、先になって、今書いたことを読んだらどう思うのかなぁ ?
先日、高校生の女の子に手作りクッキーをもらいました。人のきもちの宛先になることはしあわせだなぁと何時も思います。なっちゃん、ありがとうね。
ますますこの頃本を読むことができなくて、どうしてとっ散らかっているのかなぁ。さておき。えーと、岸見先生のおはなしがあったそうで、その要約だけを冊子で読んだのでちょっとメモ。えーとえーと、つまりは幸福に生きるというおはなしに思えるのだけれど、先日の100分で名著のラッセルの「幸福論」からイメージはつながり。ラッセルも「他者とつながること」でしあわせになれると云っていて、そこらへんも。
「成功と幸福をとを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。
成功は質的なもの、量的なものであり、他方幸福は各人のもので、質的なものである。」
(三木清 人生論ノート)
幸福は存在に関わり成功は過程にかかわる。幸福は過程ではなく、何かを達成しなくても今こうして生きていることがそのまま幸福だということ。ある経験をしたからふこうになるわけでもなく、幸福になるわけでもありません。
対人関係のなかでしか人は幸福になれないのです。アドラーはあらゆる悩みは対人関係の悩みであるという云い方をしています。対人関係に傷つくのを恐れる人はいますが、対人関係は幸福の源泉でもあるのです。人と人との関係のなかにあって初めて生きる喜び、幸福であるという感覚を持てるということが本当だと思う。
対人関係に入って行くとき、自分に価値があると思える時に勇気が持てる。そのためには貢献感が必要。今の時代は生きる人の価値を生産性にしか求めないということが大きな問題だと思います。何が出来るかにしか価値を置かない。相模原のとても不幸な事件をまねいたような、そういう価値観を完璧に転倒しなければいけないと思う。
ママのベランダで実を付けた藪柑子。ママが切ってくれたので食卓に。
用事のついでにデパートに寄りました。おせちを注文しておくためです。作ればいいようなものですが、一応年中無休のしごとなので、頑張らないで、重箱につめたおせちは毎年買います。子供たちが帰省してくれば家族は5人になりますが、作るものもあるし今年は何時もより小さいのにしてもいいなと思いながら売り場に行ったのです。
思案して、そしてやはり何時も通りの大きさのを予約しました。そのことに別段意味は無いけれど、今年はそうしておきました。
わたくしを好きなときあり藪柑子 池田澄子 「ゆく舟」所収
日曜美術館でロダンをやっていました。カレーの市民のことなどのことを説明していてたのしかったですが、写真の作品もロダンだそうです。人間に限らないのかもしれませんが、生き物のからだってうつくしいものですね。大理石の質感も魅力的です。運慶も素敵だったけど、ロダンも素敵!! たのしいですね。
彫刻の題材はギリシャ神話。エジプトから移住してアルゴスの王となったダナオスの50人の娘たち(ダナイード)。結婚を承諾すると見せかけて初夜にそれぞれの夫を短剣で刺殺しました。彼女たちはダナオスともども皆殺しにされましたが、罪の報いに冥土で底に穴のあいた甕に水を満たすという終わりの無い苦役に服されているというもの。
ギリシャ神話もともかく、悲しんでいる女の背中の何と美しい線と形状。ゲストの白井晃さんが俳優の動きやポーズ、配置についてお話されていたことも面白かったです。しかし、悲しんでいるこの女性、やはりモデルはカミーユなのでしょうかしら。
日曜美術館は背景のお花もとってもたのしみですが、HPに行って見たらお花のページもきちんとありました。
布を半分にちょんぎって、ひどい縫い目でミシンがけをし、リネンプリントを縫い付けて、ゴムを通し。なんちゃってスカートに。しかしやはりもう1本はゴムを入れないとしっかりしないみたいですけれど。まあ、スカートといえばスカートってことで。
3年前の12月、実家のハハと商店街を歩いていて買った布です。その頃はしんどかったなぁ。いわゆる更年期にドボンと落ち込んだような日々でした。「これでスカートでも作って履いて元気を出しなさいよ。」とハハは言いました。布はまるまる3年寝かしてあったというわけです。
自分のきもちを見つめたりしないのがいいと思いますし、誰もぼちぼちやっていくんですよね。さあて、ゴム紐買ってくるかな。上手に師走を過ごしましょうね。
ネオンがにぎやかな辺りで4人でごはんを食べて、そのあと、コーヒーを飲めるお店を求めて歩きました。なかのひとりが1回だけ行ったことがあるというコーヒー屋さんを見つけて、よしよしと入り込みました。
そうしましたらね、何て言えばいいんだろ、経験したことのない異空間といいますか。他人事に「ゆったりと時間が流れ」なんて聞くとくすぐったいけど、本当にゆったりと。勝手で失礼な推測ですが、器用には生きられないくていらっしゃるんだろうなこのマスターと思わせられるのです。そして、そこに、そのマスターのせめぎあいの中に成立しているうつくしいお部屋とでもいいましょうか。
緻密過ぎて到底素人は理解できない細やかな手書きのコーヒーのメニュー。びっくりするほどにそっけない接客。浅いローストをネルドリップで入れた飲んだことの無いおいしいコーヒー。出てくるまでの長い時間。それぞれに選ばれた上等なコーヒーカップ。店内の画やチェロなどの楽器、不揃いでそれぞれに心地よい椅子。マスターの、世の中のとの折り合いのつけかたに励まされるような感じというものを受け取ったのかな。よくはわかりませんが。
すぐにまた出かける機会があるかというとわからないのですが、ぜひ何時までもあってほしいお店だと思いました。よろしければ、お連れしますね。
月〜土 16:00 〜 翌1:00 日曜 14:00 〜 22:00 日曜営業